是大神呪、是大明呪
『般若心経』はチベット寺院でも毎日お坊さんたちが唱えるほど身近な存在ですが、チベットの学匠たちによる『般若心経』の解釈も、ちゃんと現代まで継承されています。
今回は『般若心経』の最後に登場する一番重要なパート、呪(=真言)の解説です(以下):
『般若心経』を日頃お唱えしている方には、きっと参考になるはずです。
その前に少しだけ、「3つの転法輪」についてお話をします。
(小難しいことは書きたくないので、できるだけ平易にしますが、読み飛ばしてかまいません)
釈尊が教えを説かれることを仏教語で「法輪を転ずる」(転法輪)と呼びますが、4つの段階で転じられたと、チベット仏教では解釈します。
1段階~3段階目は、すべての人を対象とした、一般的な教え。つまり顕教の教え。
4段階目は、少数の個人のみを対象とした、特別な教え。つまり密教の教え、です。
そして最初の3段階の法輪を、三転法輪と呼びます。つまり三転法輪はすべて顕教に属します。
1段階目の転法輪(初転法輪)は、ワーラーナシー(現在のインド、UP州)近郊にあるサールナートという場所で展開されました。リシパタナ(鹿野苑)とも呼ばれます。
ここでは「四聖諦」が示されました。
「苦・集・滅・道の4つ」と言えば、なんとなくわかるかもしれません。
要するに、
「この世も捨てたもんじゃないよね!」
と考える人には、この世の無常・不浄・不純を示し、欲望が新たな苦しみを生んでいる無限連鎖の中にいることを、示されたのです。
また
「どうせ善をしたって報われない」
「悪いことをしても別にかまわない」
と考える人には、業の因と果を教えました。そうすることで、不善を制し善を為す真実の道へと誘ったのです。地獄に堕ちず、天で安穏に暮らすという選択肢です。
「五蘊に我はどこにも存在しない」といった話は、この段階の生徒さんにはあまり通用しません。
むしろこの世での「我」を肯定してあげることで、不善をやめさせる必要すらありました。
欲望を少し抑えられるような生徒さんに対しては、はじめて、「我は無い」(無我)と説くことで輪廻を離れ、涅槃に誘うことができました。
しかしこれらのアプローチは他より劣っているとされ、「小乗」と名付けられます。
2段階目の教え(第二転法輪)は、1段階目に出てくる「我は無い」がさらに発展したものです。
説かれた場所は主に、霊鷲山(現在のインド、ビハール州)です。
『般若心経』も『法華経』も、ここ霊鷲山の頂(上の写真)で説かれました。
この段階では、この世すべてのものに「欠如」があることが示されました。
あらゆる事物が、現象が、本質的に「欠けている」ことを示します。
この欠如のことを仏教で、「空」と呼んでいます。
「欠けている」とは固有の性質をもたないことで、原因があって、いろんな条件や環境があって成立していること(=縁起)を、釈尊はここで明らかにしたのです。
さらに仏陀がもつ特徴として般若波羅蜜(究極の智慧の完成)があり、その般若を追求していく存在を菩薩としました。
そして空とは、仏陀や菩薩のもつ無執着のあり方であるというのが、『般若経』をはじめとする第2段階の教えに示される内容です。
そして私たちは、議論や書物の言葉ではなく瞑想修行によってのみ、その境地を会得することが可能になります。
ただし、2段階目の教えは誰でも理解できるわけではなかったようで、釈尊の弟子ですら、ショックのあまり心臓発作を起こした者もいたそうです。
この段階は、より優れた教えとして「大乗」と呼ばれます。
そしてこの「大乗」が釈尊の1段階目の教えと矛盾しないことを示したのが、聖ナーガールジュナ(龍樹)だったのです。
『般若経』は第二転法輪に属する教えですが、ひとくちに『般若経』といっても数多くあり、『十万頌般若』『二万五千頌般若』『一万八千頌般若』などが存在します。
これらすべてのエッセンスといえば、『金剛般若経』(三百頌般若経)と『般若心経』の2つであると言われます。
釈尊は涅槃の兆候を示されると、八万四千の大乗・小乗の法門をアーナンダ(阿難)に託して、厳しくこう言付けたと伝えられています:
『般若経』を修する者は慈悲心が増し、空の理解が深まり、いずれは無我の智慧が生じるといわれます。
なにより空を理解すること自体、膨大な福徳となります。
その功徳は、三千大世界に満ちる金銀財宝を十方三世の諸仏に供養するよりも圧倒的に多いと、経典には説かれます。
また空を学んで実践することができれば、たとえわずかな時間であっても、多くの罪を浄化することが可能になります。
ここから先は、現代チベット仏教の著名な先生、ケンポ・ソダルギェー(Khenpo Sodargye)の解説です。
古訳ニンマの仏教博士であり、経典翻訳者でもあります。なにより中国語でわかりやすく説法ができることから特に中国・台湾に信者が多く、中華圏に絶大な影響力を持っています。数年前、来日も果たしました。
ケンポ・ソタルギェーの師、ケンポ・ジグメ・プンツォク(1933-2004)がケンポと一緒に中国の五台山へ巡礼して文殊菩薩の加持を得て以降、爆発的な信者獲得に至った経緯は、以前の記事で触れたことがあります。
観自在菩薩はこのような能力を持っておられたので、その場で、般若波羅蜜多真言、つまり上記の内容を実践する方法を指し示したのです。
「羯諦」とは「行け」という意味で、「証悟」の意味です。
「羯諦羯諦」はすなわち、「行きなさい!行きなさい!」と、あなたを往かせることを意味します。
「波羅羯諦」の「波羅」とは「彼岸」の意味で、あなたが彼岸へ行くよう誘っています。
「波羅僧羯諦」とは、あなたが「真実の彼岸」に行くよう誘っています。
「菩提薩婆訶」の「菩提」とは正等覚(完全な悟り)を意味します。
「薩婆訶」は私たちが毎日の真言でよく唱える「ソーハー」で、「お行きなさい」「行ってらっしゃい、あなたの悟りを祝します」という意味の一種の祝辞です。
また「ソーハー」には「あちらに行って安住する」という意味もあります。「安住する」の言葉の裏には、「あなたが安らかに暮らせますように」という願意が込められています。
真言全体の意味は次のとおりです:
「行きなさい、行きなさい! あなたは向こう岸にお行きなさい! 真実の向こう岸に行って、悟りの境地に安住しなさい!」
これは次のように言い換えられます。
「行きなさい、行きなさい! あなたが向こう岸に行けますよう! あなたが真実の向こう岸に行けますよう! あなたが完全な悟りの境地で安住できますよう!」
衆生は輪廻という此岸に生き、仏陀は涅槃という彼岸に生きますが、すべての衆生が懸命に精進し、やがては彼岸――菩提の妙え勝れた結果(悟りの境地)――を成就できるよう、願うのです。
この真言には、別の意味もあります:
最初の「揭諦」は、私たちが資糧道に入ることを可能にしてくれます。
2番目の「揭諦」は、私たちが加行道に入るよう励ますものです。
「波羅揭諦」は、一切衆生を菩薩の初地(第一地)である見道に向かって進ませます。
「波羅僧揭諦」は私たちに(菩薩の)第二地より上の修道に向かわせるよう激励します。
「菩提娑婆訶」は無学道、つまり仏陀の境地(仏果)に進むことを意味します。
このことから、修行や悟りの果は一朝一夕に得られるものではなく、まずは段階的に資糧道を修し、さらに加行道に進んだ後、見道にて悟るという順序に注意する必要があります。こうして五道を段階的に実践するのです。
チベット語の発音は比較的、サンスクリットに近いです。すなわち:
英語版の『般若心経』はおそらく、チベット語もしくはサンスクリットから翻訳されたものでしょう。ケンポ・ジグメ・プンツォク師に同行してアメリカやカナダに行った際、イギリス人が唱えるこの真言の発音がチベット語にとても似ていることを知りました。しかも発音はチベット語より明瞭でした。
以前、私は杭州空港である方に会いましたが、彼は日本語ができたので、日本語版『般若心経』を彼に唱えてもらいました。日本式の「波羅揭諦」の唱え方も、チベットと似ていました。
またケンポ・ジグメ・プンツォク師がシンガポールを訪れた際、スリランカから比丘が来たことを歓迎するシンガポールの法会に参加されたのですが、その時も一部のスリランカの比丘が『般若心経』を唱えていて、その発音が中国語のに似ていて印象深かったことがあります。
もちろん国によって母語の発音に差がありますので、読み方は異なるのでしょうが、しかし根底にあるものは同じでしょう。
ですが、もし漢訳の『般若心経』を唱えるのなら、玄奘訳の真言に則って念誦したほうがよいでしょう[※訳者注:日本で唱えられている「般若心経」は玄奘訳]。
唐代の玄奘は仏教に多大な貢献をした方で、我が師、ケンポ・ジグメ・プンツォク師も「玄奘は菩薩の化身」というテーマについて多く言及されていました。
もっとも、他の翻訳者が真実の語を達成した存在かどうかまでは判断がつきません。もし彼らが真実の語を達成した偉大なお方であれば、その方が翻訳した真言は加持力を持つでしょう。
仏教徒のみならず仏教に関心を持つ者がいる国では、一般人の間でも『般若心経』を唱える習慣もあります。また『般若心経』に関する解説が多く紹介されているアメリカ、フランス、マレーシア、カンボジア、アフガニスタンなどにおいて、『般若心経』がもはや仏教文化の範囲を超えて、人々の民族文化の中に浸透していることも見てとれます。 『般若心経』はもはやどこにでもあり、人々の日常生活の中に早くも溶け込んでいます。
「こんなシンプルな真言にどんな加持があるって?」などと考えてはなりません。ジャムグン・ミパムが『百真言の功徳』を説いたとき、数多くの真言に言及することで、人々の中に大きな信心をもたらしました。
たとえば「オーン・マニ・ペメ・フーム」や「テヤター・オーン・ムネー・ムネー・マハームナイェー・ソワーハー」は、一見すると価値がないように見えますが、実際これらの真言の加持力は、私たち凡夫の思慮をはるかに凌駕しています。ジョナン派のターラナータや[ニンマ派の]ロンゾム・パンディタの注釈書にもそのように記されています。つまり真言の功徳は、計り知れないのです。
『般若心経』は仏陀と観自在菩薩が説かれたもので、加持のこもった金剛の真言を備えています。その功徳は計り知れないもので、平時でも、あるいはちょっと悪縁が生じたときや不運な出来事に遭遇したとき『般若心経』をすべて読誦する時間がなくても、この短い真言を唱えるだけで、大きな功徳が得られます。
諸仏と諸菩薩は大慈・大悲をもってこの真言を説き、私たちにこう告げておられます:
衆生は生と死の危険な狭間をさまよい、あらゆる種類の苦しみを受けているにもかかわらず、大多数は現状に満足していて、解脱するしない・涅槃するしないといった問題にはまったく関心がありません。心相続の中に決して出離心が起きることがないので、この輪廻から離れるつもりがまるでないのです。
ここで仏陀は、私たち有縁の衆生に対して解脱への大道を示してくださいますが、解脱できるかどうかは自分自身にかかっています。衆生の運命はすべて己の手中にあり、仏陀といえども私たちを個別に掴んで輪廻の彼岸へ投げ入れることはできません。
私たちは仏教徒として正知と正念を起こすべきです。いつでも自分をこうやって思い起こしてください:
皆さんがそのような心づもりをして、自分の意志と行動に頼るならば、必ずや輪廻という牢獄から抜け出すことができるでしょう。
近年話題になったアメリカのドラマ「プリズン・ブレイク」や映画「ショーシャンクの空に」は、どちらも主人公が苦難や努力を重ねて監獄を脱するストーリーです。
監獄にはたしかに衣食があるし、自分が獄中で囚人リーダーになったらそれなりの地位もあるでしょうが、しょせん監獄であって、絶対的な自由は永遠に望めません。よってできるだけ早く逃げるか、もしくは早く釈放されるよう努めたほうがずっとよいでしょう。
同様に、私たちは今、食べ物、衣服、地位、そして一時的な幸福を持っているかもしれませんが、輪廻の本質とは苦しみと不自由です。解脱を獲得することによってのみ自身を解放できますし、最終的には多くの衆生を解放することができるのです。
※参考記事:「チベット式の、厄除け儀軌」
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