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「食」の視点から何が考えられるか

移住連編集部(和光大学) 挽地康彦

M-netの2023年2月号の第二特集は「食と移民」です。noteでは特集の総論記事を紹介します。いまや地方都市でも多くの「エスニック」料理店があります。本特集では「食」を、個々の移民の立場やエスニック・グループの成員の立場から考察していきます。M-net本誌では、本特集の記事が他に5本掲載されています。目次と購入方法はページ末尾のリンクをご覧ください。(編集記)


本特集のねらい

本号の第2特集では、「食と移民」をテーマに据えました。本誌で「食」の特集を設けるのは初めての試みになるかと思います。すでに食のグローバル化や多様化が進行して久しい時代にあるとはいえ、考察の切り口そのものは新しく、手探りする中で企画したというのが正直なところです。したがって、先の話になりますが、このテーマは本号で完結するものでなく、今後も幾度か設定されていくのではないかと想定しています。

さて、そうした前提を踏まえながら、今回の特集でねらいとして考えたことは、大きく分けて次の二つの点にあります。一つは、移民国家である日本のありとあらゆる場面で、すでに移民(移住者)たちがこの社会の食に深く関わっているという事実の確認と、そこから何を問うべきなのかを示唆すること(①)。もう一つは、本誌でも繰り返し論じられてきた移民の社会問題を、食の観点からあらためて検討することで、移民の側からみたホスト社会でのサバイバルの様相を描けないかという期待です(②)。これらのねらいを追究するにあたっては、なるべく多角的な視点が必要であると考えて、各論考を編成しました。

この二つのねらいの意義について、もう少し説明すれば、①に関しては、まず食と移民を結びつけて形成されるイメージが、とりわけ日本のマスメディアがそうであるように、どうしても観光や消費の分野に偏りがちであることが背景にあります。つまり、エスニック・フードへのまなざしや移民の食文化に対する表象が典型的ですが、食と移民の関係は異国趣味に彩られた消費の文脈でないとホスト社会に認識されづらい側面があることです。日本の国際交流や異文化間交流を目的とする各種のイベントが、外国籍住民の民族的な食(文化)のみを通じて相互理解の促進に努めようとする場合もまた、同じ性格をもっていると考えられます。

しかしながら、食の観点から捉えられる移民の生をめぐる状況は、ホスト社会の異国趣味で切り取られる側面ばかりではありません。たとえば、第一次産業で農畜産物や水産物を採取し、第二次産業で食品となるよう加工・生産し、第三次産業でそれらを流通させ販売し、飲食店などでサービスを提供する、という食産業のあらゆる分野において移住労働者が欠かせない存在となっています。それは、小麦や大豆など輸入に大きく頼る食料自給率の現状があるのと同様に、広い意味での食の生産に携わる人材もまた、食産業全体の人的資源の供給率の低さから移住労働者に依存せざるを得ない現状があることを意味しています。問題は、にもかかわらず、なぜ日本の食生活や食産業が移民によって支えられている現実が直視されないのか、その理由は何かという部分です。

この問題は、二つ目のねらい(②)について考えていく意義にも関わってきます。周知のとおり、日本社会で働く移住労働者たちが直面する、在留資格上の制約や深刻な人権侵害は食産業に限った問題ではありません。そうであれば、他の産業分野で発生する諸問題と共通する構造やメカニズムがあると考えてよいのか、もし食産業に特有の問題があるとすれば、それはどのような性質なのかについて考えていく必要があります。

一方、そうした険しい状況が立ちはだかる中でも、制度の網の目をかいくぐろうとしたり、社会問題を乗り越えようとしたりする、移民たちの柔軟で、たくましい実践も食の分野では垣間見えるように思えます。大都市や集住地域において移民のフード・ビジネスはどのように展開されているのか、食を通じた世代間での民族文化の継承や信仰の維持、コミュニティないしネットワークの形成はどのように行われているのか、食の多文化主義と公的な制度の間では望ましさをめぐってどのような折衝がなされているのか、など。こうした問いに含まれる食と移民の関係性を、個々の移民の立場やエスニック・グループの成員の立場から考察していくことで、社会問題の検討から得られる知見とはまた違った、共生を模索するヒントが見出せるのではないか。

それは、統合政策を欠き、ご都合主義的な入管政策のみで対応する日本の制度・政策の「加害性」を告発しながらも、「被害者」や「犠牲者」として括られるだけでない移民の生の在り方にも目を向けていくことを指し示しているのです。

エスニック・グループの食文化と「共生」

もとはラテン語の祝祭に由来をもつ「共生」(conviviality)という言葉には、かつて饗宴という意味がありました。わかりやすく言うと、テーブルを囲んでの「会食」です。また、古い時代の西欧における「客人歓待」(hospitality)の行為にも、贈与としての「食事のもてなし」が重要な契機となっていました。つまり、人が他者と〈関係すること〉〈、ともに生きること〉、〈喜びを分かち合うこと〉、〈もてなすこと〉において、食事をすることは中心的な役割を果たしていたのです。

現代のホスト社会における移民の暮らしに着目した場合にも、食(文化)が媒体となって、社会関係の形成や維持、エスニック・グループへの所属意識の決定や民族文化の継承などが起こっていることがわかります。たしかに、グローバルな人の移動と移住によって、各地の食文化も越境し、他所の食文化と融合するなど、出身国のそれとは異なる形で発展することがあります。多国籍料理やフュージョン料理はもはや珍しいジャンルではなく、現地で調達できる食材や雇用できる料理人、消費者の味覚に合わせて変容していくのが、移民社会の代表的な食文化といっても過言ではありません。

しかし、他方で、ホスト社会における移民の食文化には、そのエスニック・グループやコミュニティの輪郭を保持するような性格があることも事実です。多様な出身国や文化的な背景をもつ人びとからなる社会でも、「○○を食べるグループと食べないグループ」、「食器を使うグループと使わないグループ」など、食習慣の違いや宗教上の理由から、食文化がエスニック・グループ(やコミュニティ)の境界を設定している側面です。その意味では、食文化それ自体が移民の差異化を促すような排他的な機能を有しているといえます。

日本でもよく見られる現象ですが、ある地域で同胞の移民の集住傾向が見られれば、その移民の食文化が定着し、飲食店や宗教施設が食事を介した社交の場になり、さらに同胞を呼び寄せるという動きがあります。また、逆に日本ではまだ少ないのかもしれませんが、アメリカやカナダのような移民国では、一人の人間の中に複数の出自、民族、文化が数世代にわたって混交しており、自身のエスニック・アイデンティティをどこに求めるか、どのコミュニティに所属するべきかというルーツへの回帰や、失われていく民族文化をどのように再生していくのかというルーツの再創造において、「食」が起点となることが移民たちの日常的な生活世界からうかがえます。

このように、移民たちが自身の食文化を守っていこうとする運動は、さしあたり多文化主義の実践として捉えることができ、ホスト社会がその要求に応えるとき、共生へ近づいているとみなすことができます。しかしながら、ホスト社会が多文化主義とは別の形で関与していくとなると、複雑な問題がいくつか顕在化していきます。

一つは、先に述べた、消費社会におけるエキゾチシズム(異国趣味)の問題です。移民に特有の食文化を商業化していく際にはとりわけ、ホスト社会はその個々の文化を承認するというよりも、むしろ単なる消費対象とみなして、その多様化のみを称揚する方向に流れていきます。もう一つは、移民の食文化へのネガティブな差異化と、食文化を通じた分断の問題が考えられます。ヘイトのような排外主義が蔓延するホスト社会では、食文化の違いを理由に分断を正当化し、差異の徴(しるし)となる同胞向けの移民の飲食店などが容易にヘイトのターゲットになってしまいます。

今回の特集では、移民の食文化をめぐる分断と排除の問題は取り上げていませんが、今後の課題として検討していく必要があるでしょう。食をめぐって移民社会の共生を考えるとき、ホスト社会の食産業全般を移住労働者が支える構造があることが見えてくる一方で、そのホスト社会からは対等な権利を保障されず、安定した暮らしも約束されない現実が浮き彫りになってきます。そうした不平等と不寛容に覆われる移民の生活では、彼ら/彼女らの食(文化)とそれが媒介する生活世界が緩衝帯として機能しているのかもしれないし、他者を理解しようせず分断を煽る社会に対して共生への糸口を提供することになるのかもしれません。

いずれにしても、「食」には、国民であれ移民であれ、人びとの日常的で、関係的で、祝祭的な、その意味で「共生的」(convivial)な潜勢力が秘められていると考えます。この総論の後には、本特集にご寄稿頂いた5名の方々による議論が続き、また「移住者と宗教」のコーナーを担当された高橋典史さんの論考もこの特集に大いに関わる内容となっております。合わせてお読みいただければ幸いです。

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