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【詩の感想】『石川敬大詩集 ねむらないバスにゆられて』



 石川敬大さんから送って頂いた詩集『ねむらないバスにゆられて』を読み終わった。随分前に頂いておきながら、読む力が弱いのでゆっくり少しずつしか読めないでいた。
 とはいえ、決して読みにくい詩集ではない。作者ご自身があとがきで述べておられるように、どこまでも「わかりやすく易しい言葉」で書かれている。
 どの詩も一見既視感のある文脈から流れてくる。たとえば、「父がいた」という詩編では、「メガネを置いた夕ぐれの/座卓の前で/相撲をみていた/ほの暗い電灯の下で/母とならんでプロレスをみていた」という記述に出会う。よくある昭和のノスタルジーに着地するのかと思って読むと、そうではない。詩は「その寒々とした宇宙空間の/テレビの前で/父は/白く発光する/ブラウン管をみていた」と完結するのだ。今、確かに存在する「宇宙空間」の父とは、死んで存在しない父であり、はっきり異化された理解不能な他者にほかならない。死とは理解と決別した存在である。だから父の見ているブラウン管にはもはやプロレスは映らず、虚無的な白い光だけがある。作者は死をファンタジーで糊塗していない。死者を生者の側から一方的に理解しようとはしていない。作者、もしくは作中人物としての主体の「父」への愛情を疑おうというのではない。死と愛情とは別物だ。愛情は穏当な自己理解の中へ収束していくが、死という「出来事」とは別に、死そのものは究極に生きている主体と次元を異にしている、というのが僕の死生観だが、たぶんこの詩の読み方はそれに引っ張られている。誤解で会ったら寛恕願いたい。
 石川さんのこの詩集での詩は、「わかりやすく易しい」結構を持っているけれども、一方で「わかりやすく易しい」ことを拒絶しているから、僕は安心して僕の偏った読み方を押し通すことができるのだろう。そして僕にとって、そのわからなさの自覚はぞくぞくする喜びでもある。はっきり意図され、表現されたわからなさでないぶん、魅力的だ。「Ⅳ」では唐突に「樋口さん」という人物が登場する。樋口さんは新聞の書評欄から姿を消した、と書かれているから、僕が知らないだけで、分かる人は分かる実在の著名な人物かもしれない。だが、詩中では一切の紹介や説明はなく、作中の「ぼく」の一方的な注目の対象として立ち現れる。彼女からの内面告白もなければ、予定調和的な相互理解に行き着くこともなく、一方的な親近感を拒絶したまま樋口さんは姿を消す。これは主体の詩ではない。主体に対置される他者に関する詩であって、ファンタジーと主観的な自己告発に満ちあふれた詩の世界にあって、度を超してリアルな世界を提示している。それも僕の偏った読み方ではあるが、そう読んで僕は充足された。
 誰か。他者として立ち現れる誰か。永遠の誰か、を描くのも詩の役割のひとつでいいではないか。解釈されない他者が、主体を取り巻いている現実の過半であることに、あまりに無自覚な表現者が多いと思う。

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