幸せの体験版

ある日、本棚から古いゲームの体験版のCDが出てきた。
それは古いゲームでもあり、古いCDでもあった。
その体験版は体験版だから、ひとつのステージしか遊べなかった。でもそれはそれでなかなか面白かった。しばらくの間、ずっとそれで遊んでいた。小学生にはそれで十分だったし、何よりも、そのCDを見つけた時点でそのゲームの製品版はとっくの昔に廃盤になっていた。
クリアするたびに、本来はそこで製品版が買えたであろう404 not foundのページが飛び出てくるのを何も考えずに消し、閉じた世界を再び歩き回った。

いつしかそれで遊ぶことはなくなっていった。
CDはどこかに行ってしまったし、そもそもたぶん最近のOSでは動かないかもしれない。
インターネットはめざましい発展を遂げ、それと一緒に私は大人になり、今の彼氏とも出会った。

彼氏の発言は頻繁に私の気に障った。しかも、彼氏の趣味は私にはよくわからなかった。もちろん小春日和もしばしば訪れるけれど、それと同じくらいすれ違った。

単に人間的な相性が悪いのかもしれなかった。さっさと別れてしまえばいいのかもしれなかった。実際何度もそう考えた。
でもその度に、私の人生に取り返しのつかない破滅がもたらされるという予感がして、実行には移せなかった。
どうしてそんな気がするのか、さっぱりわからなかった。

私はしばしば自暴自棄にもなった。そんなとき破滅の予感は魅力的でさえあった。人間関係で自傷行為をするのは相手に悪いからやめなさいと演説をする自分もいたが、大多数の自分は暴徒と化し、火炎瓶でシャンパンタワーを作っていた。結局そういうとき私の本体はいつも泣いていた。
どうして涙が出てくるのか、よくわからなかった。

彼氏は私のことを真剣に考えてくれる。その意味で優しい。というかそれ以外にも優しさという言葉で語られるものなら大体全て持っていると思う。それをフルスロットルで私に向けてくれる。いつも。

私がそれをずっと駄々をこねて受取拒否していたのだった。
すれ違っていたのではなく、ほとんど一方的に私がかわし続けていた。

つい数日前、私は仕事で潰れた。
というか、そもそもの土台が脆かったために、ちょっと仕事が忙しくなっただけで潰れてしまったんだろう。

私はしんどかったのだと急に気づいた。
自分の半生はほとんどしんどさでできており、しなくてもいいような苦労で埋め尽くされていた。

自分がどっちかというと生きづらい方の人間だとは認識していた。でも、結局ずっと現実を直視できていなかったのだった。日々の異様な多幸感は全部思い込みだった。

その一方で、彼氏は一貫して本当のやさしさを向けてくれた。一緒にいるときに見える何かキラキラしたものが幸せというものなんだろうな。
今それに気づいたけれど、ずっと前から知っていたような気もする。

すべてが星座のように繋がっていった。

幸せは私にとって既知のものでなければならなかった。
いま初めて目にした輝きを幸せだと認めることは、とりもなおさず自分が幸せを知らない人間だと認めることになる。
ありあまる幸せなら一つくらい失っても平気なはずだ。
風刺画の男がどうだ明るくなったろうと笑っている。

百円札が全部燃やされる寸前に私は成金を殺すことができた。

彼氏がいくら優しいとはいっても、彼には彼のキャパシティがある。
彼も別にスーパーマンではないので、ライフワークと私の二者択一を迫られることになったとしたら、私を捨ててライフワークのほうを取るだろうと言っていた。

何もかもを犠牲にして私を取るということも、不可能ではないという。だけれど、彼は明確に意思を持ってその道を選ばない。
それはショックな話かもしれないけれど、それでこそこの人だという気がした。私はこの人のそういう面を魅力的に思っている。そして、そんな人の2番目に好きなものになれていることがうれしかった。

もしも私がもうまともには生きていける望みがないということになって、彼に捨てられる日が来るとしたら、私は毎日毎日、彼氏だった人が作ったものを、理解もできないのに日がな一日ニコニコと泣きながら眺めて過ごすのだろう。そうやって死ぬまで幸せの体験版で遊び続けると思う。何度も何度も何度も飽きずに、限られた数の閉じた思い出の世界を永遠に彷徨って、壊れて使えなくなったプレゼントすら捨てられなくて、どこかで生きているその人本体の幸せを一日一回は祈ったりもして、何回クリアしてもどこにもつながらない、そんな朽ち果てた体験版を、それでもいつまでもやめられなくて、死ぬまで大事に、抱きしめていると思う。

そしてそれは絶対に嫌だ。