とやまの見え方・丸山眞男さん『日本の思想』のタコツボと、曲学阿世

 2022年6月10日投稿
 
 久しぶりに岩波新書の「日本の思想」(丸山眞男著)を、手にしました。

 というと、愛読書を再び開いたような印象ですが、実のところ、過去に読みこなせなかったので、新しく買い直しただけのことです。

 私が二十歳の頃、近代日本の学問や文化、社会の組織形態は"タコツボ型 "であるといわれていました。それを言ったのは、丸山眞男(まるやま・まさお1914‐1996)さんで、政治学、日本政治思想史の著名な学者でした。

 当時、友人から、タコツボ型という言葉は「日本の思想」に記述されていると聞いて、購入したことがあったけれど、読みにくくて、タコツボに行きつく前に、放棄していました。

 今回は、前回の轍を踏むまいと、まず「あとがき」を読んでみたら、丸山さんによると、この新書は、第Ⅰ章と第Ⅱ章は論文体、第Ⅲ章と第Ⅳ章は講演体で、最初のⅠとⅡが”とりつきにくい”という感を持つ人は、後のⅢやⅣから読めばいいように配慮してあるとのことです。読みにくい新書であることは著書自身も了解しているのかと、一安心。そこで講演体の第Ⅲ章を、まず読み始めました。そうしたら、出てきました、タコが。

(日本の)社会と文化の型を二つに分けて考えることにします。一つは妙な言葉でありますが、ササラ型といい、これに対するもう一つの型をタコツボ型と呼んでおきます。ササラというのは、ご承知のように、竹の先を細かくいくつもに割ったものです。手のひらで言えばこういうふうに元のところが共通していて、そこから指が分かれて出ている、そういう型の文化をササラ型というわけであります。―中略―タコツボっていうのは文字通りそれぞれ孤立したタコツボが並列している型であります。近代日本の学問とか文化とか、あるいはいろいろな社会の組織形態というものがササラ型でなくてタコツボ型である ―後略―

 と述べたところで、この「タコツボ型」の弊害を、お書きです。

 こういう風に個別的な集団がタコツボ化し―中略―自分たちは、何か自分たちに敵対的な圧倒的な勢力に取り巻かれているっていうような、被害者意識を、各グループ特に集団のリーダーがそれぞれ持ってるということになるわけであります。

 そして丸山さんは、実社会の様子を、次のように紹介されます。

 数年前に吉田(茂首相1878‐1967) さんが全面講和を唱えた著名な学者のことを曲学阿世という言葉で罵倒したのは有名な話です。

 ここの件で、私は、えっ?となりました。タコツボ話に、富山が出てきたぞと、思ったのです…。それは、ちょっと横において、丸山さんの話を続けます。

 その攻撃の対象となった学者を、個人的によく知っている人にとっては、実にばかばかしいレッテルで、その学者の戦争中あるいは戦前の言論と行動を見れば、およそ曲学阿世といったタイプからもっとも遠いことは明らかでした。しかしながら吉田さんはその学者をおそらく非常に本気で曲学阿世の徒と思いこんだのだろうと想像されます。―中略―こういう風に保守勢力さえ被害者意識をもっているのですから、進歩的な文化人の方はなおさら、マイノリティとしての被害者意識があります。

  さらに丸山さんは、こうも言います。

 なぜこういうようなことを今日お話ししたかと申しますと、われわれがいろいろなものを考え、あるいはいろいろな行動をしていく上について、我々と、環境との間にイメージの膨大な層があるという現実、それから、もう一つ日本におけるあらゆる集団、共同体であれ、あるいは近代的な集団であれ、あらゆる集団のタコツボ化というこの現実というものを十分ふまえて出発することが、いろいろな意味で大事なことであるにも関わらず、とかくそういうことが忘れられがちになるんじゃないかと思ったからであります。

 以上で、丸山さんのタコツボのお話しの大要を、何年振りかでやっと把握できました。

 さてそこで、後回しにしていた富山の話ですが、”曲学阿世”に心当たりがあるのです。 
 急いで、いつもの書店で、普段から目にしていた岩波新書「南原繁―近代日本と知識人―」(加藤節著)を買ってきました。この本によると、

 一九四九(昭和24)年一二月にワシントンで開かれた第一回「占領地域に関する全米教育会議」に招かれて、「全面講和」と日本の「永世中立」とを堂々と訴えた南原を、吉田は、現実からかけ離れた「空論」をもてあそぶ「曲学阿世」の徒として非難、それにたいして、南原は、「学問の冒涜」であり学者への「権力的弾圧」であるとして直ちに反論したのである。

 そして、ご存じのように戦後に東京帝国大学総長をなさった南原繁(なんばら・しげる 1889‐1974)さんは、富山と関係のある方です。それは同書によると、

 南原が富山県射水郡の郡長に任じられたのは、ロシア十月革命がおこるほぼ半年前、一九一七年の三月であった。―中略―南原は、「牧民官」郡長として、「因習の打破、生活改善、夫人の地位の向上」のたるに婦女会を組織し、また、「国民の精神文化」の基礎をなす地方産業の振興をよびかけている。しかし、南原か手をつけた仕事のなかでとくにおおきかったのは、治水事業と農業公民学校の設立とであった。―中略― 一九一九(大正八)年一月、妻の百合子と郡長時代に生まれた長女待子とをともなって、「多くの感慨を残し」つつ「第二の故郷」としての射水郡をあとにし、東京に帰ることになった。

  ということなのです。
  まさかタコツボ話に富山が潜んでいるとは、何十年越しの発見でした。

  私はこれで安心してしまい、この新書の他の章Ⅰ、Ⅱ、Ⅳは読みませんでした。

(引用参考文献)
『日本の思想』丸山眞男著 岩波新書 2020年11月第108刷
『南原繁―近代日本と知識人―』加藤節著 岩波新書 1997年7月刊

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