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【たべもの九十九・ひ】ビール〜人生にはビールが必要だ

(料理研究家でエッセイストの高山なおみさんのご本『たべもの九十九』に倣って、食べ物の思い出をあいうえお順に綴っています。)

週に一度、横浜の青葉区にある里山の田畑に通っている。そこで野菜を植えたり、田圃を作ったりと野良仕事体験をしている。
収穫したものは皆で持ち帰ったり、そこで食べたりと楽しませてもらっている。

田植えは裸足になって水を張った田圃に入り、一列に並んで手で植えた。ほんの一反だけであるが、生えてきた雑草を足で踏んで田圃にめり込ませたり、水草取りをしたり、蛙になりかけのおたまじゃくしを見たり、なかなかに楽しかった。

私たちが稲を植えたその田圃の周囲には、ほかの人たちの田圃もある。駅からバスを乗り継ぎ、バス停を降りて田圃に向かう道沿いには、青々とした水田が両側に広がり、伸びてきた稲が風に揺れる様が美しい。子供の頃、地元栃木では町中でも畑や田圃が点在していたから、一層郷愁を誘われるのかもしれない。

栃木では田植えの前にも稲穂の広がる景色を見ることができる。麦だ。小麦、大麦どちらも作られているが、特にビールの原料になる二条大麦の主要な生産地なのである。

子供の頃、梅雨入り前の麦が黄色く実った頃を「麦秋(ばくしゅう)」というのだと知って、これから夏を迎えようとしている時期に「秋」だなんてちょっと寂しいと思った。プールと西瓜が大好きだった小学生の私にとって、夏は一番好きな季節で、夏が終わって秋になるのは寂しいことだったのである。

けれど大人になった今は、黄色く実った麦畑を見ると、美味しいビールになってね!と思う。

お酒を飲むことは人生の楽しみの一つである。特にビールは冷蔵庫に欠かせない。
一日の仕事を終え、食事の支度をし、よく冷えた缶ビールのプルタブを引く。お疲れさま、と家族と乾杯をして飲む。缶からグラスには移さずにそのまま飲む。その方が炭酸や香りが逃げないような気がするからだ。

ビールで締める一日。
その日がどんな一日であっても、この締めのビールで「まあ、いいか」と受け止めて、前に進もうと思える。私にとって、ビールとはそんな存在だ。

ワインや日本酒も好きだし、時には焼酎やウイスキー、カクテルを楽しむこともあるが、ビールを飲まないとなんとなく一日が終わった気がしない。なので、病気や予防接種などで医者に禁じられた時、休肝日とした日以外はほぼ毎日ビールで一日を締めている。

そんなビール好きの私なので、ビールに関わる思い出は数え切れないほどある。その中で、特に大切にしている思い出をお話しよう。

1991年のニューヨーク。
日本がバブル景気真っ盛りの頃、私はニューヨークにいた。2年間だけニューヨークにある関連会社に出向していたのである。そんな機会は二度とないだろうと、両親をニューヨークに呼び寄せ、10日ほど一緒に過ごした。一週間の休みを取り、フロリダにあるディズニーワールドやナイアガラの滝などへ旅行し、仕事のある日は市内観光をしてもらい、夜は一緒に各国レストランを巡った。

それはもう、これ以上はできないと思うほど、どうすれば両親が喜ぶかプランを考え、両親専任のツアーガイドとして尽くしまくった。

そして我が家は家族全員お酒を飲むので、お気に入りのジャズバーやアイリッシュパブにも連れて行った。

McSorley's Old Ale House(マクソーリズ・オールド・エール・ハウス)は、1854年創業の、マンハッタンの中でも相当に古いアイリッシュパブで、ビールはライトとダークの2種類。カウンターでひとり5杯ずつとかまとめて買い、テーブルに並べて飲むというスタイルだった。

木でできた床の上にはおが屑が撒かれており、一時は店の主のような顔をして猫が闊歩していた。

私の食いしん坊は父親譲りだ。父はこの店をことのほか喜んだ。古い洋画のワンシーンに自分が紛れ込んだような気がしたのかもしれない。恰幅が良くスーツ姿の父はどこかイタリアンマフィアの親分のような風情であった。その時の写真が残っている。

この両親とのアメリカ旅行で、親孝行はしまくったが、父親と仲がいいわけではなかった。父は厳しく、自分の価値観で家族を支配するようなところがあったので、ずっと怖い存在で、叱られないように顔色を伺う癖がついていた。この時もなにか機嫌を損ねて叱られやしないかと、顔色を伺いながら接待していたのだ。

古いアイリッシュパブでどんな話をしたのかは覚えていない。きっと当たり障りのない話をしていたのだろうけど、でも、写真に残る満足そうな父の顔を見ると、私はもっと自分の心を開いて父と話をしたらよかったんじゃないかと思う。

旅行から2年後、53歳の若さで父は急逝した。不慮の事故だった。通夜、告別式を通して、多くの弔問客から、父がこのニューヨーク旅行を本当に喜んで、成長した娘の自慢話をしていたことを聞いた。

あの店で父と母とビールを飲めてよかったなと思う。父がそんなに早く逝ってしまうなんて知らなかったから、その前にせめてもの親孝行ができてよかった。

ビールが好きなのはその苦味のせいだろうか。
ビールの苦味と爽快な喉越しが、人生の味わいのように感じられるのかもしれない。そう、人生にはビールが必要だ。

★★★いつも読んでくださってありがとうございます!「スキ」とか「フォロー」とか「コメント」をいただけたら励みになります!最後まで、食の思い出にお付き合いいただけましたら嬉しいです!(いんでんみえ)★★★

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