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【たべもの九十九・ふ】ふぐ〜はじめて物語

(料理研究家でエッセイストの高山なおみさんのご本『たべもの九十九』に倣って、食べ物の思い出をあいうえお順に綴っています。)

9月に入って急に気温が下がり、冷房の使用をやめて掛け布団を出した。近所の緑道を歩くと秋の虫の音が聞こえ、9月半ばになると金木犀が香り出した。季節は変わり、夜が長くなっていく。

寒くなってくると温かい食べ物が恋しくなる。これからの季節、食卓にはスープや煮込み料理が増える。鍋物もよく登場する。おでん、豚キムチ鍋、鶏団子鍋、ほうれん草と豚肉の常夜鍋、椎茸と白菜、春雨がポイントのピェンロー鍋、余り物で作るごちゃまぜ鍋あたりが我が家の定番だ。

鍋は外でも食べる。中目黒にある「日本で二番目に美味しい」(と看板に書いてある)焼き鳥居酒屋「栃木屋」さんの、冬場になると登場する鳥つくね鍋がすごく好きで、シーズン中2〜3回は食べに行く。鶏肉のいろいろな部位とつくねと豚バラ肉とたっぷりの野菜が入ったその鍋を、美味しいから!と何人食べに連れて行ったことだろう。鍋は一人で食べるのではなく、いろいろなものが入っていてみんなで食べるからいっそう美味しく思えるのかもしれない。

(「栃木屋」の鳥つくね鍋)

そして、年に一度は食べたいと思うのがふぐ鍋だ。ふぐは高タンパク低脂肪低カロリーでコラーゲンたっぷり、ビタミンやミネラルも豊富で言うことなしの理想的な食べ物。
ただ安いものではない。

年末年始、栃木の母に東京に来てもらい、年始に三重県に住む義母と合流して伊勢神宮に初詣にいくのがここ数年の習いとなっている。なので母が来る年末はなにがしかご馳走を作る。
ある大晦日にふぐ鍋を作って母と夫と三人で食べた。ふぐ鍋を前にすると、母と私はいつも同じ話になる。私の「はじめてのふぐ物語」だ。

あれは私が10歳くらいの時だったと思う。給料日の後で、父はまだ食べたことがないふぐ鍋を食べさせようと家族を車に乗せて店に向かっていた。

その日私は小学校で同級生とくだらない言い争いをしていた。
「この世の中で一番高級な食べ物はなにか」という話で、当時の昭和の小学生たちにとってそれは「ビフテキ」であり、食べたことがある、ないで言い争ったのだった。

クラスの男子「おまえ、ビフテキなんて食ったことないだろー」
私「あるもん!(本当はない)」
クラスの男子「うちは昨日の晩ごはんビフテキだったんだぜ〜(ドヤ顔)」
私「うちだって今夜ご馳走食べにいくんだから!(これは本当)」

「ビフテキ」とは「ビーフステーキ」のことである。略語と思っていたらそうではなく、フランス語の「ビフテック」から来ているらしい。
「ビフテキ」と言ってわかる方は同年代であろう。きっとその「ご馳走感」も共感してもらえると思う。

熱く焼けた黒い鉄板の上に重量感を持って横たわる焼けた肉からは香ばしい匂いが立ち上り、その上ではバターが溶けかけている。肉の脇には人参のグラッセとフライドポテト、インゲンなどの野菜が添えられており、ステーキソースを掛けると熱い鉄板の上でジュワジュワとソースが音を立てる。

これが当時の小学生がイメージするこの世で一番高級な食べ物であった。

今は安い輸入牛肉もあるし、「いきなりステーキ」といった手軽に本格的なステーキが食べられるお店もあるし、ファミレスでもどこでも食べられるが、昭和50年ごろは洋食を外で食べること自体が希少で(少なくとも我が家は)、デパートのレストランですら特別な時に家族で出掛けていく高級な場所だったのである。

場面を戻そう。昼間に同級生とのそんなやりとりがあったものだから、ふぐ鍋を食べにいく時に私は全力で訴えた。

「ビフテキが食べたい!」

どうせ高いものを食べにいくのならふぐなどという訳の分からない魚より、絶対肉だ。ビフテキだ。ふぐが高級でなかなか食べられない食べ物だというならば、私はふぐよりビフテキがいい!
ビフテキ!ビフテキ!ビフテキ!ビフテキ!

私の執拗な訴えに父は切れた。
「お前は食べなくていい!車に残ってろ!」と、ふぐを扱う割烹店の店先の駐車場に車を止めて、私は一人車に残された。

一人後部座席で泣いた。悲しかった。どうしてもビフテキが食べたかった。お父さんはどうしてこの気持ちをわかってくれないのだろう。みんな私を置いていってしまった。でも謝るもんか。だって私はどうしてもビフテキが食べたかったのだ。いや、もはや本当にビフテキが食べたかったのかどうかもわからない。ただ、父に私の切なる願いを聞いてもらいたかったのだ。

どのくらい時間が経ったろう。
泣き疲れてシートに突っ伏して寝ていたら車のドアが開いた。母が迎えに来てくれた。
「今、雑炊作っているから、美味しいから一緒に食べよう。」

涙の筋が残る顔のまま、店に入って席についた。父の顔は見ない。鍋の中には卵で綴じられ湯気を立てている美味しそうな雑炊があった。
母が器にとり分け、私の目の前に置いた。小さな緑色のネギがきれいだった。

仏頂面のまま食べる。口の中にこれまで食べたことのない上品な出汁の香りと味が広がった。
(なに、これ。こんなに美味しい雑炊、食べたことない!)
目が開き、口はもっと開く。舌を火傷しそうな勢いで食べた。美味しい。涙が出る。美味しい。

ビフテキは確かに高級なご馳走だ。でもこのふぐ鍋はもしかしたらもっとご馳走なんじゃないか?
そこでようやく自分が食べ損ねたふぐ鍋の価値に気がついた。でももう遅い。ふぐは皆食べられていて、残っているのはこの雑炊だけだった。
けれど、ふぐ鍋を食べていない私のために、父も母も弟も雑炊は少し口にしただけで、私が半分以上一人で食べた。美味しかった。本当に。

これが私の「はじめてのふぐ物語」である。

今思い出しても切ない。そして、久しぶりにふぐ物語を振り返ってみて、私はとても大事なことに気がついた。

父や母や弟にとってはどんな出来事だったのかということだ。私がそんな風だったから、ふぐ鍋を囲んで食べた家族が楽しかったはずがない。
父は不機嫌だったろうし、そんな父の前で母も弟も小さくなって鍋をつついたのではなかったか。
今の今まで、そのことを一顧だにしてこなかった。

がーん。

頭の中で音がした。
これまで、ビフテキもふぐ鍋も食べられなかった自分の気持ちだけ考えていた。今更だけど本当に申し訳ない。ごめんなさい、お父さん。お母さん、弟も。

父が早逝したことはこれまで何度か紹介しているが、二十回忌とかの父の法事の時に、このふぐ鍋の店で家族で会食をした。弟が手配してくれた。季節的にまだ鍋はやっていなくて、懐石風の食事となったが、話題はまたあの時の「初めてのふぐ鍋」になった。

弟や私の家族にとっては初めて聞く話で、それは会食の席での笑い話になったのであるが、我が家はみんな食いしん坊なので、「ふぐ鍋」にとどまらず、食べ物にまつわる逸話には事欠かない。

それって実はものすごく幸せなことだ。
家族が一緒にご飯を食べる。ただそれだけのことが、それを積み重ねることで家族を家族たるものにしている。毎日のご飯の中に、悲喜こもごもの家族の歴史が添えられている。

★★★いつも読んでくださってありがとうございます!「スキ」とか「フォロー」とか「コメント」をいただけたら励みになります!最後まで、食の思い出にお付き合いいただけましたら嬉しいです!(いんでんみえ)★★★

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