あともう一度だけツルハシを
生きる意味がないとき、「でも死ぬ意味もないし」と思うのか、「もう終わっていいんだ」と思うのか。
私は後者だ。昔から、私を生に繋ぎ止めてくれたのは義務感だった。家族には私しかいないから。弟妹はまだ幼いから。私がいちばん家のことを知ってるから。みんなの緩衝材にならなきゃいけないから。だから生きてなければいけない、それなら、どうせなら楽しく過ごそう。そう思えるのは私のメンタルが本来タフであることを示していると思う。思いたい。私はそんなに、やわな人間じゃない。
楽しいことはたくさんある。友達もまあまあいるほうだと思う。絵を描くことも見ることも愛している。小説を書いたり読んだりするのが好きだ。続きが見たい漫画がたくさんある。美味しいご飯を食べることが好きだ。お菓子作りや料理のレシピを考えるのが好きだ。植物が好きでチランジアを可愛がっている。生き物が好きでたまらない。編み物を最近少しやってる。タイピングゲームが好きだ。ランニングや筋トレやストレッチが好きだ。短歌の美しさに今更気がついた。こうして取り留めのない文章を書くことだって、好きだ。
でもそれは、全部、生きなきゃいけないというストレスに対抗するため仕方なくやっていたことにすぎなかったらしい。
今となれば、何もかもがどうでもいい。
弟妹はもう大きくなった。職場も回ってる。私が死んだって困る人はもういない。悲しむ人はいるだろうけど、私は知っている。人は親や友人が自殺したって、数ヶ月やそこらで回復してしまうことを。私はこの目でその様子を見てきた。友人の死も味わった。わかる。きっとみんな私の死を乗り越えてくれるはずだ。
美味しいものを食べたら嬉しいだろうと信じて、高いパンケーキを食べた。美味しいには美味しいけど、大好物のはずなのにそこまで嬉しくなくて悲しかった。
Skebでうちの子を描いてもらうように依頼中だ。うちの子を描いてもらうのは楽しい。楽しいはずだ。そのためだけに生きる!と言ってもおかしくないぐらい楽しみなはずなのに、見ないで死んでしまっても別にいいと思ってる。
電波人間のRPGがSwitchで出るらしい。私は電波人間の大ファンで、シリーズ全部やったし、スマホ版がサ終した時はめちゃくちゃ悲しかった。Switch版だってやりたいに決まってるが、やれないまま死んでもいい。
欲求が悉く失われている。けれど、元気になったら取り戻すはずのものだから、それがあるように振る舞っている。元気になった時、そのシミュレーションを思い出すことで、喜びを回収することができるような気がするのだ。
最近はめちゃくちゃに破滅したくって毎日毎日飲酒の欲求に耐えている。元々酒には強くてなかなか酔えないので、破滅したければ相当飲まなければならないのが面倒で飲まずに済むことが多い。酒に強くてよかった。でも飲み始めたら早く酔わせてくれ!と叫びまわりたくなる。この前頓服を多めに飲んだ上に焼酎をおそらく4合程度飲んだのだが、そのあと会った友人に「酔ってるように見えない」と言われた。確かに酔ってなかった。一人で飲んでも酔えない。誰か私の泥酔を見届けて欲しい。
薬も酒も効きにくい。入院した時も、点滴二日間の予定が「薬効いてないから延長」と言われ、結局5日間針が刺さりっぱなしでまともに動けなかった。その薬は最後まで効かなくて新薬に変えてもらった。眠剤もろくに効かない。もう何種類試したかわからない。今は寝る前に4種類の薬を飲んでいる。ODしてた時期だって、初心者はn錠ぐらいと言われたのを素直に飲んでみたがダメで、結局1瓶一気にガラガラ飲んでいた。末期の人間が飲む量だが、それでやっと気持ち良くなってなんとか学校に通えた。基本的に体弱いのに肝臓だけ異常に強い?普通に困る。
こんな人間でも、そのうち元気になって幸せになれるとどこかで信じてる。
この状態は病気だ。未来に何の希望も見出せないのは全部病気のせいだ。生きている意味がないってだけでじゃあ死ねるじゃんと嬉しくなるのは病気のせいだ。私の意思ではない。これは病気だ、破滅したいのも何もかも病気から来る欲求にすぎない、それを知っているから何とか踏みとどまれている。使える理性は全てここに使っている。私は病気である、その認識のために。
ここまで書いてきたようなつらいことくるしいことかなしいこと全部私の本来の意思ではないということを、生きて明かすために。
自由意志とは何か?というのは難しいし、専門家でもない私がするにはいささかつまらない問いだけれども、とりあえず、生きていて気持ちいい状態なら「自由意志」で、気持ちよくないなら「病気」と思うことにしている。本来私たちは幸せであるべきだから。そうでしょ?
私は死に瀕したとき、確かに生きていてよかったと思ったのだ。
確かに、生きている、その神の采配に、心の底から感謝したのだ。
もう諦めて全部から尻尾巻いて背を向けて逃げたいよ、と思うことだって幾度となくあったしこれからもあるけれど、あともう一度だけツルハシを振る。振り上げる力がないなら休む。そうしよう。だってあとすこし、ほんのすこし掘ったら、光が差し込んでくるかもしれないから。それが今際の際でも、なんなら死んだ後でも構わない。
そう信じるべきだから。
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