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信仰者というマイノリティ

あなたは子供の頃、神はいるって信じてた?

私の過ごしてきた社会において、神はサンタクロースと同じ扱いをされている。ちいさな子どもが、サンタクロースいる派/いない派にわかれて論争をする様子が、バラエティ番組で流れている。大人たちは当然、サンタクロースは自分たちであることを知っているから、いる派には素直で可愛い、いない派にはませてて可愛いという目線を向け、にこにこと見守る。

神だって同じだ。子どもが信じていれば無垢でかわいいと言われ、大人だったらヤバい人扱いだ。少なくとも、私の生きてきた環境はそうだった。

サンタクロースは信じていなかったけれど、小さいころから神を信じていた。信じていたというか、知っていた、の方が感覚としては近いかもしれない。私は、神のことを、全知全能、人智の届かぬ場所そのものとそれを統べる者、といったような抽象的な概念として捉えていて、これは幼い頃からずっと変わっていない。だって、そういう存在がいなかったら怖い。だからいると思うし、いると思えばいる。あると思えば、すべてがそこにある。私はずっとそういう感覚で生きてきた。

私の家は宗教とはあまり馴染みがない。幼稚園は仏教幼稚園だったけれど、仏教はちがうとなんとなく感じていたし、神道も違う。なのに、神社でなんとか祈願なんかをすることに対して、なんとなく違和感を抱いている。そこにいる何人が、本物の信仰心を持っているのか。大体の人にはレジャー施設として消費されているし、誰もそれを疑問に思わない。私はお賽銭を投げてなんとなく祈ったりしてみながらも、私の探している神はそこにいないと、ずっと昔から知っていた。

不思議なことだと思う。どうして、宗教の概念をあまり理解していない子供のうちから……本当に物心ついたときから、神を探していたのか。その頃から私はまだ神を知らぬだけの信仰者であり、ずっとマイノリティであったのだと、最近気がついた。

信仰心が当たり前である場所がほしい。ここにいる人は皆、信仰を持っていて、息が詰まるような思いをしなくていい、そんな場所。

聖書を読むと、ずっと探していたものがあったことを知って心が落ち着く。私が今まで感じてきた息苦しさとは比べ物にならない、想像を絶するような……苦しみを、偉大な聖人たちは信仰故に受けてきた、あの方はわたしたちの痛みをすべて、ご存知です、そうやってとある人から声をかけてもらって救われた。

信仰を、神を、必要としているけれど、うまく信じることができなかったり、信じているけれど見つけることができないだけの信仰者たちは、どれだけいるのだろう。この社会の息苦しさにさえ気がつかず、やっと信仰を得たときに、今まで気づかなかった分すべての痛みを受けなくてはならない人たち。

それでも言いたい、どれだけ痛みがあっても、信じるに値するものを見つけられた人は、わたしは幸福だと。わたしたちが涙を流すとき、あの方も共に苦しんでおられるのだから。

すべての人に信仰心を持ってほしいとは、わたしは思っていない。でも、それを必要としている人が、苦しむことなく得られる社会であってほしい。そういう人たちが、神に出会えてよかったと、思える社会であってほしい。

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