努力による生存

逃げ癖がある。私はいつもいつもいつも何かから逃げたいと思っている。目の前にある何か……正直なんでもいい。逃げること自体が目的であって、それそのものが嫌だから逃げたいわけじゃない。

例えば仕事、家族、通院、ひとつのことから逃げても、逃げたいと思う対象が変わるだけで、ああ逃げおおせた!助かった!と思うことはない。逃げて逃げて逃げた先にあるのは、もう逃げるものさえない、という現実。

私は真には人生から逃げたいのだ、そういう気づき。


これでも、逃げずに頑張ってきた方だと思っている。さっさと死んでしまえばよかったのに死ななかったのは、明確に努力の賜物であると自負している。

努力によって普通の人生を得るべく、ずっとずっと、回避傾向をねじ伏せて歩いてきた。勿論、回避傾向が元々ない人々と比べたらいろんなことから逃げていると思う。けれど、私にできる限りの範囲で、逃げずに向き合ってきた。

より良い人生を送らなければいけないと思っているから。

生きているだけでうっすら苦しいのは異常で、人生は楽しいものだと信じているから。

楽しい人生を送るためにできることが、まだまだあるはずだと、固く。信じている。

本当は学校なんか行かずに将来の希望を潰してしまいたかったのに、苦しみながらも卒業してしまった。就職なんかせずに引きこもって理不尽な恨み言を吐いて生きていく道もあったのに、就職してしまった。職場でセクハラに遭ったタイミングで辞めてしまってもよかったのに、戦ってしまった。結局その戦いで精神を病んだけど、辞めずに休職という形にして、まだ復帰を諦めずにもがいている。ずっとずっと、全てを終わらせてしまいたかったのに。

絶望に向かって思い切り走り抜けたらどれだけ気持ちいいだろうかと思う時がある。だって、将来なんかどうしようもないほどに人生を破壊してしまえたら、もう希望を抱かずに済むのだから。

次こそは、次こそは、この一歩を踏み出せば人生がきっと楽になると信じてはまだダメだったと気づかされ、それでも、あと何歩か先に光が見えるはずだと歩き続ける。足の裏には血豆ができてじんじんと痛む。それでも歩く。歩く歩く歩く歩いていつまで歩けばいいのかわからない、この先歩いても何もないんじゃないか?そういう疑念が自分を覆い尽くそうとするのを必死で振り払う。


生きていることが怖い。怖いから、朝なかなか起きることができない。起きてしまったら、時間が無為に過ぎていくのを観測し続けなければならないから。生きるとはそういうことだから。

人生に一発逆転はないと分かりつつ、何か劇的なことが起きてほしいと強く願っている。何が起きたら楽になるのか、私自身にもわからないけれど。

これでも、人生全体で見れば、少しずつ楽になってはいる。でも……23年間も努力してきて、たったこれだけか。苦しみも楽しみもないニュートラルな状態になることすら叶わずに、いつも苦しいけど昔より少しマシになったね、というぐらいにしかならないのか。そんなのってないよ。私は楽しい人生を送れるようにすごく頑張っているのに。趣味を作るだとか友達を増やすだとか、余暇にも力を入れて。それなのに。

こんな苦しいままで死にたくない。絶対に楽しい人生を送りたい。でも無理なんじゃないかと思う。私なんかがここまで来れただけで、十分奇跡的なことなのだから、分不相応な人生をすでに歩んでいる……本気でそう思う。

常に脳がくすぐったいような感じがする。体の中がざわざわする。何もしてなくても。平穏な時間でも。とにかく生きているだけでそわそわとして苦しくて苦痛で大暴れしたくなる。頓服を飲んで祈る。涙が出る。いつか救われるその時を、心の底から待っている。

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