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女子校の日々

朝6時には起きて
重い手提げカバンを
持ち列車に乗る。

当時は時間帯により
何と蒸気機関車が
普通に走っていた。

高知駅に着くと
高知城近くの
女子の園に
子どもの足で
20分位でつく。

各クラスは
担任の姓がついた
〇〇ホームと呼ばれる。
中1の担任は
ナイスミドルの
音楽教師だった。

ハンサム好みの私は
とても嬉しかった。

この学校は
県下のあちこちから
生徒が来ていたので
昼休みが2回ある。

中休みで持参の
弁当を食べる。
短い昼休みには
ダッシュして
食堂に行く。
私は
この頃はかなりの
大食漢だった。
ここのうどんが
毎日の楽しみだった。

午後の授業は
睡魔との戦いだ。

近眼が幸いして
教卓の1番前に
座る特権を享受して
いたので
今も大切な友 
Yと
2人でうまく
教科書を見てるふり
しながら寝る。
何しろ1クラス
65名。
教室はぎっしり
生徒でうまっていた。 
教卓前は先生の
死角だったのだ。
箸が転げても可笑しい
年頃の私たちは
先生のジョークに
即反応して笑い転げる。 
又 
シビアなニックネームを先生に付けて笑っていた。例えば小柄で色黒体育教師は
ブラックめだか。
いつも口元が開いている物理教師に
さびチャック。等々。

校則が厳しい学校で
寄り道などもっての
ほか。
私は
部活にも興味はなくて
学校-自宅の往復を
単調にこなしていた。

何しろ6年間
共に学ぶ-遊ぶ
身内より近しい
関係を築いた事が

大切な財産になった。
はた目には
幸せそうなお嬢様
にも既に親の決めた
好きでもない
許嫁がいたり。
実は本妻に子どもが
いなくて赤子の時
から実母と別れて
本妻の子どもとして 
成長したりで
まるで
明治-大正時代のような話が    
多々あった。
複雑な生い立ちの中
でも
土佐の女だ。

明るく逞しい。

私のうちにも様々な
問題が噴出していた。
とにかく
親元を離れて
両親とは違う人生を
生きたいと強い意志を
持てたのは
この学校で
友だちと
楽しく濃密な時間を
過ごした事が
ベースにある。
得難い邂逅を
していたのだ。
こぼれ話は
またいつか書いて
みたい。

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