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【小曽根真&塩谷哲】スペシャルデュオコンサート 2003/03/20 18:30-21:15 札幌コンサートホールKitara その2


第二部
01 Passage (by Satoru Shionoya) * solo piano by Satoru Shionoya
02 Un Dernier Miracle (by Makoto Ozone) * solo piano by Satoru Shionoya
03 Cat Dance 〜 88+∞ (by Satoru Shionoya)
04  Tango (新曲・題名未定) (by Makoto Ozone)
05 Spanish Waltz(新曲・題名未定)(by Satoru Shionoya)


そして…、物語は続く。

第一部の冒頭で塩谷さんは、このコンサートのリハーサルと最初の一曲が、自分の何年もの音楽的経験に匹敵する濃いものであると語った。これは、あこがれのピアニスト小曽根真とのコラボレーションによって、何よりも自分自身が、自分の音楽が、ドラスティックに変化しつつあるという極めて直截な報告であり、さらにその感動を集まったオーディエンスとシェアしようとする、塩谷さんの開かれた、気高い精神のありようを語ったものだった。だとすれば、いや確実に、その後の小曽根さんとの競演、さらには小曽根さんによう自曲のソロ演奏、そして神懸かりともいえるピアノコンチェルトを目の当たりにして、ピアニスト塩谷哲の中で起きつつある化学変化は、われわれの想像を超えて爆発的なものであるに違いなかった。一瞬、一瞬、生まれ変わる感覚…これをオーディエンスですら痛いほどに感じるのだから、塩谷さんはどれほど切実に新しく湧き上がる感情と直面しているか、僕たちにも想像することができた。その、一番新しい塩野哲が、ひとり静かにスタインウェイの前に座った。

01 Passage (by Satoru Shionoya) * solo piano by Satoru Shionoya
曲名はコールされない。静寂を破るように、低音から一気に駆け上がり、次に高音からさみだれのように落ちてゆく美しい音。テンポはとても速いが、静謐さがまもられる不思議さ。ピアニストの息づかいが聞こえてくるような、微妙な間。ピアニスト塩谷哲の才能が、独自の空間を生み出してゆくのだ。左手で律動をはじめた魂が、やがて右手に乗り移り、主題が奏でられる。とても現代的で美しいメロディである。サーッと目の前に広大なランドスケープが現れる。とてもイメージのくっきりした曲なのだが、聴く者が想起する風景はおそらく無限のバリアントを持つ。巨大な摩天楼を思い起こすものもあれば、地平線までの沃野を想う者もあろう。季節感ですら、四季すべてを許容してしまう不思議なテクスチュア。共通しているのは、自分自身が手を大きく広げ自由に空を飛んでいる感覚があることだ。塩谷さんも、低音から高音まで全域をあますところなく用いるピアニストだが、低音を多用しつつも空に舞い上がる飛翔感が失われないのは、もう独自の世界だと言うほかはない。ただし、低空飛行。いたずらに高空を目指さず、いつも地上が見えている。ひらひら飛んでいるのに、実は音楽としては緻密で構築的であり、僕たちがイメージの世界に遊んでいられるのも、塩谷さんの中にコンポーザーとしての天才とピアニストとしての天才が同居しているからにすぎない。不安をかき立てられるようなエレベーションに導かれる第二主題は、テンポがことさらスローダウンし、センチメンタルなパッセージが数小節奏でられるが、ここは水中をくぐるようでもある。再び静かに第一主題が聞こえてきてくるが、テンポを緩急自在にコントロールしてさまざまなボキャブラリーを用いて自己内対話を試みあと、一気に加速して無数の美しい音の散乱するなかエンディングを迎えた。心にしみわたる感動的な演奏であった。曲は、塩谷さん作曲の「Passage」。『トリオっ!』からの選曲である。
 塩谷さんがマイクを持つ。「どうもありがとうございます。一部の最後の小曽根さんの演奏がものすごすぎて、何を弾けばいいのかわからなくなってしまいました。自分の曲をあのように弾いてくれるというのは、もちろん今まで無かったことですし、僕にとって本当にうれしいことでした。もう、このままCDにして出したいくらいです。」「では今度は、僕が小曽根さんの曲をソロで弾いてみたいと思います。」

02 Un Dernier Miracle (by Makoto Ozone) * solo piano by Satoru Shionoya
小曽根さんの『So Many Colors』から、フランス語のタイトルがついた美しくセンチメンタルなバラード。塩谷さんは、この曲を非常にゆっくりしたテンポで弾く。この曲の持つ哀切さがよりいっそう強調される演奏である。こうしたスローな曲を聴くと、塩谷さんの弾く一つ一つの音が非常に粒だっていて美しいことがわかる。クリアなのにメロウ、そしてセンチメンタルなのである。作品の持つクラシカルなフレーバーを最大限に生かし、きわめて端正で禁欲的な演奏にこだわることで、むしろこの曲を深く彫琢してゆこうとする試みのようにも思える。とはいえ、主題をインプロヴァイズする場面では、高音域を極めて効果的に使い、ピアノを思いきりリリカルに歌わせることを忘れはしない。ピアノとともに育ち、ピアノの響きを呼吸するように生きてきた塩谷さんにしてはじめてできる演奏であろう。塩谷さんも小曽根さん同様、鍵盤の端から端までをダイナミックに使い切る数少ないピアニストである。これは、単にテクニックの問題ではない。どう表現していいのか…、つまりは空間認識の問題なのである。ピアノを前にして見えてくる音のランドスケイプが重なりあっていると言ってよいかもしれない。塩谷さんがソロで小曽根さんの曲を弾くことで、よりそのことが明確になってゆくように僕には思われた。この曲はコンポーザー小曽根真に、深い愛をもってデディケイトされたのである。

03 Cat Dance 〜 88+∞ (by Satoru Shionoya)
塩谷さんが、前曲とは対照的に軽快なイントロダクションを弾き始める。と、左手の客席から小曽根さんがスーッとステージに近づいてゆく。それに気づいた左側のオーディエンスがまず笑い、その笑いの輪がホール全体に広がってゆくなか、小曽根さんが塩谷さんに投げキッス。ステージに立ったままピアノを弾く小曽根さんは、同時に足を踏みならしてリズムをとっている。お互いが一小節から数小節ずつ弾き、小気味よくチェイスを繰り返すという楽しい構成。あまりにもめまぐるしくパートチェンジを繰り返すし、もともと資質の似たふたりのピアニストの息がぴったり合った状態での演奏だから、僕たちも鍵盤を見ないとどちらが主旋律を担っているかわからないほどだ。くっついたり離れたり、爪でひっかいたり軽く噛みついたり、じゃれあう二台のピアノ。タイトルはコールされてないけれど、猫のモチーフであることは誰にでもわかる。小曽根さんは、ペットボトルやピアノのボディを叩いたり、クラッピングをしたりして、自由奔放に塩谷さんを挑発するのだが、また見事にその挑発にのって塩谷さんがガンガン弾いてくるのだ。しかし、得意の高音部でじゃれあっているから、音色はおどろくほど繊細で研ぎ澄まされた感じ。二台のピアノの上に、スコーンと抜けた明るい空間が出現した。ステージの上のふたりが全速力で対話し楽しんでいることが、僕たちにもわかる。わかるから、小曽根さんが何かを仕掛けるたびに、オーディエンスから笑い声が起きるのである。小曽根さんがダーッと弾いて右腕を肩の位置まで上げていたずらっぽく合図をすると、今度は塩谷さんがザッーと弾いて両手の掌を結んで顔の前にちょこんと置く。招き猫の手を、両手でするようなチャーミングなスタイルである。もう、楽しいのひとことなのだ。
 急にテンポがスローになって、新しい主題が提示される。この曲はメドレーで、前半が塩谷さんのアルバム『PIANIZMIX』から「Cat Dance」、後半は『88+∞』からタイトルチューン「88+∞」である。ワンコーラスだけ「88+∞」の美しいメロディを丁寧に演奏したあと再びふたりは急加速。末尾にシンプルな上昇音階を持つフレーズをモチーフにして、自由にインプロヴァイズしながら繰り返し、繰り返し演奏される。塩野さんも椅子から飛び上がるようにピアノを弾く。ピアノは打楽器でもあるのだ。徐々に音量が拡大してゆき、ホール全体が幸福な大音場となった瞬間、あまりにも楽しいこの曲は終わった。割れんばかりの拍手が湧き上がったのは当然である。ステージ上のふたりも、オーディエンスも、みんな笑顔である。興奮が押さえきれない。

小曽根さんがマイクを持つ。塩谷さんの顔を見ながら「ハハハ、よかったね、うまくいって…(笑)。空中分解するかと思った。リハーサルで一回もうまくいったことがなかったんです。みなさんのおかげです。(笑)ありがとうございます」。みんな声をあげて笑った。

小曽根さんが続ける。「さて、このコンサートでは、いままでに二人が書いてきた曲を一緒にやろうと思って決めてきたんですけれども、でもせっかくだから二台のピアノのために新曲を書こうということで、一曲ずつ曲を書きました。それで、まず最初に僕の曲なんですけれど、いろいろ考えた末に結局タンゴに仕上がりました。ただ、まだ題名が決まっていないんです。僕のイメージでは、タンゴには昔の情景とか、情熱とか、いわゆるパッショネイトな、エモーショナルな要素が入っていると思うんです。今現実にいろいろ起こっているような状況で、世の中が不安定だったりするんですけど、これは世界レベルだけのことではなくて、自分が生きていること自体も不安でいっぱいで、しかしその不安と向かい合って生きていく中でいろんなことが起こってくる。ドラマがあるっていうんでしょうか、それが人間であることの一番すばらしい部分だと思うんです。そんな思いがが、なんとなく音になってできたという曲です。まだ題名は決まっていませんが、聴いてください。」


04 Tango (新曲・題名未定) (by Makoto Ozone)
三日前の3月17日、東京のサントリーホールでこの曲がはじめて演奏されたとき、幸運にもそれを聴いたフォーラムのメンバーたちがどれほど熱狂し賞賛の言葉を捧げたことだったか…、いよいよ今夜僕たちはその曲を塩谷さんとのデュオで聴くことができる。三日前には未完成で、小曽根さん自身が今できているところまでを弾くと語ったとも伝えられるその曲を、である。小曽根さんの深いラテン音楽への造詣と傾倒はつとに知られていることであり、僕たちも何度となく小曽根さんの弾くタンゴを聴いてきた。とりわけ、『VIRTUOSI』がリリースされてからは、ホルヘ・カルドーソの名曲「Milonga」を ドラマチックに弾く小曽根さんのすさまじい表現力に圧倒され、演奏されるたびに感激の涙を流し、ブラボーを叫んできたのである。個人的なことになるが、僕が音楽に心から感動し揺り動かされて、生まれてはじめて「ブラボー」と絶叫したのは、この小曽根さんのタンゴの演奏に対してであった。その小曽根さんが、満を持してタンゴを書いたのである。そして事実上のワールド・プレミアが、これまたラテン音楽のエキスパート塩谷さんとのデュオというのだから、期待するなという方がどだい無理な話なのである。

演奏がはじまった。遠くからかすかに聞こえてくる不協和音が静寂を破る。不安定な和音が人生の不条理や不安を象徴するかのような導入部である。そこに、塩谷さんによるザクッザクッとしたテクスチャのバッキングが入り、まもなく小曽根さんの奏でる力強い主題が加わる。低音の堂々たる骨格をもった物語が語り始められた。僕はこのタンゴの持つ叙事性をどう説明したらよいのだろう。この曲を聴いていると、不思議なことに目の前にくっきりした人間の姿が見えてくるのだ。現代では、日々の生活で人間らしい人間に出会うことは希有である。類型化された人の群れ、中途半端な疎外感にたゆたい、孤独な魂さえ資本主義にコントロールされている、人間のフェイク。なによりも、僕自身がそうだ…と思う。しかし、小曽根さんの描き出すのは、ああ人間に会えた、本物の、姿のくっきりした人間に会えたと誰もが確信できる人間の姿なのである。その人間の持つドラマツルギーを、わずか数十小節であますところなく表現しきるのが本物のタンゴであり、その意味で小曽根さんの生み出したこの曲はまさにタンゴでしかありえない。憂愁と苦渋を表現する暗い旋律によって始まるこの曲の主題は、人の拍動を思わせる強いリズムによって重々しく語られるが、そのリズムに乗って、主旋律が低音域から高音域への上昇を伴うとき、常に甘美な希望のモチーフに到達する。音楽の表現には人生の具体的なエピソードはすべて捨象される。しかし、だからこそ、誰もがこの曲に人生そのものを重ね、深い感動に導かれるのである。どこまでも上昇してゆく音階は、幸せな幼年時代を、甘美な恋愛を、家族の笑顔を、そして美や真理への憧憬を想起させ、僕たちに勇気を与えてくれるのである。しかし、次の瞬間、今度は塩谷さんの手によって主題は冒頭から再現されはじめる。小曽根さんの力強いバッキングの中を、繊細で都会的な資質にあふれる若きピアニストが渾身の力をこめて物語を語り始める。二台のグランドピアノが息を合わせて、ゆっくりと螺旋階段を昇ってゆく姿はまさに圧巻。自在に上昇し下降するきらびやかな修飾音、そして、二台のピアノが底堅く刻み続ける低音部が聞こえてくる。その中を、主旋律が堂々と美しいメロディを歌う。それがタンゴだ。一瞬音がとまり、四十本の指が再び動き出したとき、交響楽のような音の厚みでホール全体が揺れ始めた。センチメンタルでロマンチックなメロディに陶酔しながらも、際限なく刻まれる低音に覚醒する。タンゴの情熱に向き合って涙が止まらなくなる。


なんという感動なのだろう。やがて、曲は静寂の世界に戻ってゆく。フォルテシモの残響が頭の中にあるのだが、確かにピアニシモを聞き分けている僕たちの耳がある。僕たちは、自然に感動の根元を追い求めているのだ。音が極小になるや小曽根さんが椅子から立ち、ピアノの内部に手を入れて弦をはじく。小さな和音が、この新しい傑作のラストノートとなった。こうして、僕たちオーディエンスは、小曽根さんと塩谷さんに魂をわしづかみにされたのである。いくら言葉を弄しても、そのときの感動を百パーセント言い表せないのが、僕にはとてももどかしくもあるのだが…。

実は、驚くべきことに、塩谷さんがタンゴをコンサートで弾くのは、その夜がはじめてだったのだそうだ。熱帯JAZZ楽団のピアニストにして、日本におけるラテン音楽の第一人者塩谷哲にしてからが、今までタンゴを弾く機会はなかったということだろう。コンサート前日のリハーサルでこの曲を弾き、自分の演奏に課題を見つけた塩谷さんは、宿泊先のホテルで朝五時までもくもくと練習を続けたのだという。もちろん、ベッドの枕を鍵盤に見立てて…。そしてコンサート当日、リハーサルに現れた塩谷さんは、すでに超一流のタンゴ弾きだった。もちろん、ここで言う超一流とは、塩谷哲にしか弾けないタンゴを弾くという意味である。才能を支えるにはとてつもない努力が必要なのだ。僕はフレッド・アステアのことを思い出していた。ミュージカル映画の中で自由で流麗な踊りを見せるアステアは、実はたいへんな努力家であった。毎日スタジオに一番乗りし、その日踊るダンスのステップやターンの位置を確認し、ひたすら練習を重ねていたのだという。その修練があればこそ、パートナーの女性の肘をスーッと引くだけでダンスが始まり、ダンスの精のように振る舞えたのだ。芸術家が自由を獲得するには、見えないところで血の出るような努力がある。それは、小曽根さんにしても同じことなのだろう。ドラマが起こるには、必然があるのだ。

今度は塩谷さんがマイクを持つ。「名も無きタンゴでした。それでは、最後に僕のほうがこのイベントの…というかふたりのはじまりのために書いた曲を演奏します。僕の方は、スパニッシュ・ワルツのような曲になりました。この曲もまだ名前がないんです。」ここでオフラインの小曽根さんがヤジを飛ばす。「三日前にできたんですよ!」。これには塩谷さん思わず苦笑い。「そうなんですよね。三日前にできたばかりでね、それから譜面を書いた。その曲を小曽根さんにやらせてしまうというんですから…。」後で塩谷さんから伺ったのだが、リハーサル前に今夜のための新曲は出来ていたのだという。それも、二、三曲。しかし、小曽根さんがあまりにもすばらしいタンゴを作曲してきたので、塩谷さんはそれに励まされ促されるようにして、まったく新たに大曲を書きおろしたのである。三日前の東京。小曽根さんが塩谷さんに電話をかける。「SALT、そろそろ取りに行ってもいい?」。塩谷さん「もう三十分だけ待ってください!もうできあがりますから…」。それから塩谷さんは三十分でパート譜を書き、それをコンビニエンス・ストアでコピーをし、書き下ろした楽譜を小曽根さんに渡したのだと言う。そんな緊張感あふれるエピソードを持つ生命力を吹き込まれたばかりの曲がこれから演奏される。コンポーザー塩谷哲が全身全霊で書いたスパニッシュ・ワルツが、ふたりの天才的なピアニスト小曽根真と塩谷哲に捧げられたのである。小曽根さんが、気合いを入れて、腕をぐるぐる回しながらピアノの前に座わる。塩谷さんが、指でワン・ツー・スリーとカウントを取る。さあ行くぞ!

05 Spanish Waltz(新曲・題名未定)(by Satoru Shionoya)
冒頭部からすさまじいスピードで低音部を行き来する不安のモチーフが奏でられ、それが一気に高音部に駆け上がったかと思うと、花火がはじけるようにドラマティックなパッセージが大音量で提示される。力強いメロディを担うのはもちろん塩谷さん。グランド!!と思わず叫びたくなるような壮麗な響き、堂々たる風格の舞曲である。その音があっという間にかき消されて、静寂に戻ったと見るや、満を持して繊細な主題が演奏されはじめる。高音部を見事に使い切った美しく哀切なメロディ。くるくると鍵盤の上を舞う指の軽やかな感覚が、オーディエンスにもダイレクトに伝わる。音とリズムが波紋のように広がり、次のモチーフを呼び起こす。正確に刻まれるラテンのリズムは揺るぎないが、音は独特の浮遊感を持って空間に溢れ出し、散乱する。目の前に現れるのは、アンダルシアの平原を地平線に向かってのびる細い道。音が織り上げる美しい魂のランドスケープなのである。同じラテン音楽のDNAを持ち、語り口のテクスチュアは相似形であるにもかかわらず、この塩谷さんのスパニッシュ・ワルツは小曽根さんのタンゴとは明らかに異なる印象を僕たちの心に刻みつけるのだ。EpicとLyric、叙事的と叙情的という言葉を僕に最初に教えてくれた大人は誰だったか…この曲を前に表現に窮する僕には、かけがえのない啓示を与えてくれる言葉である。異論があるかもしれないが、塩谷さんのこの曲は、叙情性の極北にある美を表現したものだと言ってみたい。上昇下降を繰り返す音は魂の動きそのものであり、音のランドスケープのなかに仕組まれた情感のレセプターがなめらかな音のゆらぎに反応するとき、音そのものがあらたな旋律やモチーフを求める。そして生み出されたメロディが再び僕たちの心の琴線に触れ、その結果僕たちは、音でさまざまな感情をコレクションしてゆくことになるのだ。小曽根さんは、塩谷さんの意図を深く理性的に受け入れ、主題を自在に変奏してゆく。さらに曲の表情が深まり、とめどなく哀切なメロディが溢れ出す。リリシズムとドラマツルギーの火花が散るような競演である。やがて、リズムが止まり、再び息を吹き返して、塩谷さんがもの悲しく甘美な主題を再び提示する。僕たちがメロディと自己同一化し音と戯れ始めたとき、それを振り切るようにふたりは全力疾走を開始した。塩谷さんが叩きつけるようにピアノを演奏する。大音響のなか、グランドな主題が自己主張する。小曽根さんは、ピアノのボディを叩き、弦を手でかき鳴らし、耳元でクラッピングをして、塩谷さんを挑発し、この曲を励ます。僕たちもどんどん拍動があがり、顔が紅潮してくるのだ。あまりにもドラマティックなこの曲のエンディングに心奪われながら、僕たちもふたりのピアニストとともに全力疾走していた。


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