見出し画像

【鈴木瑶子SOLO&DUO】2024年7月5日(金)

2024年7月5日(金)

@珈琲美学(学芸大学駅)

【鈴木瑶子SOLO&DUO】

鈴木瑶子 (piano)

中林俊也 (As, Ss)

スペシャルゲスト

Timothy Johnson(g.)

今回のSOLO&DUOライブは、珈琲美学のママ原美枝子と鈴木瑶子が相談して企画された。DUOのパートナーとして選ばれたのはサックスの中林俊也で、彼のブッキングはあっという間に決まったという。中林は鈴木のクインテットのメンバーでもあり、気心は知れている。ただしDUOをやったことはない。クインテットでの演奏のとき、みんなが演奏をやめて、なんとなくふたりきりになったことはあるが……と中林は振り返り、聴衆を笑わせた。中林とのDUOはセカンドセットに予定されている。

ファーストセットはSOLOの予定であったようだが、折から来日中のノルウェー人ギタリストのティモシー・ジョンソンが特別ゲストとして紹介され、後半の2曲をDUOで演奏した。彼は、鈴木のバークリー音楽大学時代の同級生で、ニューヨークを拠点に活動している。

鈴木瑶子も、中林俊也も、ティモシー・ジョンソンもコンポーザーであり、それぞれのオリジナル楽曲を自由自在に聴かせてくれた。志の高い若き芸術家たちである。

珈琲美学は小ぶりなライブハウスだから、鈴木の鍵盤上の繊細な指使いを彼女の背中越しにつぶさに見ることができるし、パートナーとピアノの間の濃密なアイコンタクトの中に入り込むことさえできる。音楽的にも心情的にもまことにタイトなのである。それがジャズの本質に触れているようでうれしい。

以前も述べたが、クインテットにおいても、鈴木瑶子のリーダーシップは、ピアノでぐいぐいひっぱってゆくものではなく、メンバーの歌心を最大に引き出し、その美しい演奏にインスパイアされながら、濃密な対話のうちに自分が音楽に没入するというものである。とりわけ自らが書いた楽曲を演奏するときには、コンポーザーとしての冷静と統御を身にまといつつ、それを演奏の中で脱ぎ捨てて、聴衆の目の前で、より高い次元の音楽に組立直してゆく姿が印象的だった。

中林俊也とのDUOでは、そのいわば鈴木マジックがより明確に見えていたように思う。中林のサックスのテクニックはすばらしく、疾走感のあるはやい曲でも、ルードなブルースでも、音で自らの心情や物語を美しく表現する。それを鈴木は正確なバッキングで受け止めながら、中林のために音楽的スペースを開いてゆく。自由で豊かなスペースである。今回のライブで、私はそのスペースをつぶさに見たような気がした。パートナーへの信頼と尊敬、そしてあこがれがないと、目に見えないまま終わってしまううはかない場である。その真っ白なキャンバスに中林が描く壮大な物語であれ、豊かな情感であれ、それらを真摯に真正面から受け止めて、対話のメロディに没入する鈴木の恍惚の表情を何度も確認することができた。鈴木の視線の先には譜面台の楽譜があるが、鈴木はその遙か彼方を見ていた。生命力の燃焼をともなうすさまじい迫力だったように思う。見ていて、聴いていて、心が熱くなった。そして音楽への愛を確信した。

ギターのティモシーとのDUOもまたすばらしいものであったが、楽器によって歌い方をかえてくる鈴木の演奏技術も、またパートナーとのスペースの広さ深さを自在にかえてくる構想力もすばらしい。いつもニコニコ微笑む鈴木だが、もちろんマグマのような情熱を保ち続けている。

鈴木揺子は「あわい」の芸術家である。ジャズプレイヤーはすべからくそうであるし、それを目指すのだろうが、鈴木は一種の才能としてそれを持っている。鈴木はDUOが楽しいという。中林とのリハーサルも食事をとることをを忘れるほど集中したという。そしてその成果を、聴衆とともに二倍にも三倍にもしてしまう不思議な力をもつ。今後もさまざまなアーティストとのDUO公演が続くようだが、目が離せない。もちろん、ボーカリストとの共演も「あわい」のひとつである。

さて、最後に鈴木のSOLOについてである。今回は4曲しか聴けなかったのだが、次回はもっと聴いてみたい。天から降りてくる豊かなインスピレーションを、一音一音選びながら鍵盤に落とし込んいく思索的な姿は美しく、師の小曽根真を彷彿とさせるものがった。とりわけオリジナル楽曲をSOLOで弾く姿には、DUOにはない緊張感がみなぎっていたようにも思う。SOLOの演奏は、それが自作の楽曲であっても、自分と対話しているわけではない。自分に才能とインスピレーションを与えてくれる音楽の神との対話。それゆえ謙虚にならざるをえないのでもあろう。しかし、私は、今の鈴木揺子に「あわい」のアーティストして、SOLOにより積極的になってもらいたくもある。天から降りてくるインスピレーションとの媒介者としての演奏。

鈴木はパートナーたちには豊かな「あわい」を与える愛の人だが、きっと自分の音楽性や演奏については極めて厳しい潔癖さをもっているように思える。それは芸術家として大切な資質だと思うが、とても乗り越えるのが大変だ。

聖書に「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉があるが、私は「自分を隣人のように愛しなさい」というのもまた真実だと思う。鈴木揺子のような豊かな愛の音楽家にもまたその思いを伝えておきたいと思う。もうあなたは音楽の神に愛されている。

次のライブにさらに期待したい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?