METROPOLITAN JAZZ Vol.4 TOKYO PIANO NIGHT 2024年6月27日
2024年6月27日
METROPOLITAN JAZZ Vol.4 TOKYO PIANO NIGHT
池袋 東京芸術劇場コンサートホール
小曽根真は、METROPOLITAN JAZZシリーズのことを、「僕はここで新しいジャズフェスがはじまったと思っている」と高らかに宣言して、プロデューサーの八島敦子をステージに呼び込み、敬意と感謝の気持ちを述べた。TOKYO JAZZ のプロデューサーでもあった八島は、今も身を粉にして世界中を飛び回り、日本に紹介すべき音楽とミュージシャンとを探し続けている。彼女のためならと、世界中から駆けつけてくるミュージシャンが大勢いると小曽根は続けて、友人のジャズミュージシャンの名をあげた。表現する場を提供するプロモーターやプロデューサーの奮闘、照明・音響などの制作スタッフ、そしてその熱い思いに応えるミュージシャンが出会わなければ、このすばらしい音楽の坩堝は生まれない。小曽根はそのことを確信するがゆえに、先の宣言をし、同時に聴衆への熱い感謝の思いを述べたのだった。コンサートホールがひとつになった。
小曽根の言う「演奏スタイルも、性格も違う三人のピアニストが集まり、お互いをリスペクトし、愛し合って、ひとつの音楽をつくりあげること」……その困難なタスクを実現することのできる3人は、それこそ特別な才能を持ち合わせていなければならないはずだが、わたしたち聴衆は、目の前でその奇跡のような音楽的果実が構築されてゆく姿に刮目し、ともによろこび、身体を揺らし、そして深く感動したのだった。僥倖というしかない。
ステージの上には、フェンダーローズを扇の要にして、ハの字型に二台のスタインウェイのフルコンが配置される。フェンダーローズの奏者だけは前を向き、ピアニストは観客に背を向ける。なぜかサンダーバードの司令室を彷彿としてしまう異例のレイアウトの中で、濃密なアイコンタクトが交わされる三人の全力疾走がはじまった。
三人で演奏される楽曲は三曲。すべて三人のオリジナル楽曲で、コンポーザーがフェンダーローズを担当して中心に座るルールである。冒頭は大林武司の” Go up! |Hiroshima”。広島の放送局の夕方の情報番組のテーマ曲として書き下ろされたアップテンポの楽しい楽曲。大林のフェンダーローズがセクシーに歌う中、小曽根と壺阪健登が目にも止まらぬ早業でパッセージを繋いでゆく。壺阪が担当箇所を弾き終えたときに宙に腕を弾く動作が若々しく印象的で楽しい。ミュージシャンのよろこびや感動を視覚でも感知できるのがコンサートの楽しみのひとつである。いきなりの全力疾走。それぞれの前に楽譜が置かれているが、見る暇もなさそうな濃密な演奏である。
次に、壺阪の“With Time”。壺阪のコンポーザーとしての才能が遺憾なく表現された曲で、クラシカルなダイナミズムと物語性を持つ。この美しい曲を、小曽根と大林が高らかに弾く音をいちばん近くで聴きながら、フェンダーローズを操る。ソロアロバムとは異なる妖艶な芳醇さがただよう演奏であった。壺阪自身このゴージャスな共演を心から楽しんでいたようだ。
この後、三人がそれぞれソロを披露。壺阪によるソロアルバムのタイトルチューン”When I Sing”、大林によるスタンダード”All Things You Are”、そして小曽根の”Pandora“と続いた。演奏者だけがステージに残り、あとの二人は前方の客席で聴くという趣向。聞く所によれば、世紀のピアニスト二人が突然近くの席に座ったときの、その圧倒的なオーラに心が激しく揺すぶられたそうである。ひとつひとつ書き記さないが、どの曲も圧倒的な名演であった。小曽根は、大林の演奏について、「ものすごく特別な”All Things You Are”でしたね。でもジャズピアニストはもう二度とこの演奏を再現できないんです。それがジャズなんですよね」と聴衆を笑わせたが、ライブミュージックを演奏する者の矜恃であり、この夜集まった聴衆へのかけがえのないプレゼントとなった。小曽根は、異なる曲想の楽曲へすぐ移行できるように練習を欠かさないと言っている。大林と壺阪も同じであろう。天から才能を与えられたものが命を削るような努力をするからこの美しい演奏があり、豊かなコンサートがあることを忘れてはいけない。それにしても、ピアニストの後ろ姿がこれほど美しい動きをしているとは……三人三様の背中にただただ見惚れていた。
そして、この夜の最終曲は、小曽根の”O’berek”。この日の朝、J-WAVEの番組で小曽根がひとりで演奏した。それを聴いてコンサートホールに駆けつけた者も少なからずいたことだろう。扇のかなめでフェンダーローズを自在に弾きこなす小曽根と、躍動する背中を聴衆に見せながら高速でアンサンブルをつくりあげる大林と壺阪。冒頭のクラップで呼び起こされた胸の高鳴りが収まらないうちに、エンディングのクラップがやってくる。終わるな、続けてくれ……そう願わずにいられない見事な演奏であった。ブラボー!聴衆からの拍手が鳴り止むことはなく、おそらく終演時間を過ぎているのに、三人はなんどもステージに呼び返された。いうまでもなくすばらしいコンサートであった。
さて、最後に、壺阪健登である。壺阪は本来都会的な含羞の人だとわたしは思っている。シャイな人なのだ。その壺阪が「今日のピアノまつりに参加できることを光栄に思います」と語りはじめる・その「ピアノまつり」という素朴な言い方に聴衆の笑みが拡がった。「でも今夜はピアノまつりだと思うんです」とさらに続ける壺阪。その真摯な態度がまぶしい。「小曽根真と大林武司と共演できるなんて、4年前の僕には考えられないことでした。4年前の自分に今夜のことを話してみたい」。ある意味で奇跡に出くわした壺阪の心躍る気持ちがつぶさに伝わる言葉だと思った。真実のことばだ。そして壺阪はやってのけた。今夜のステージで、二人の偉大なピアニストと対等な関係で。どれほどの覚悟と練習でこの場に臨んだかが伝わる豊かなコンサートであった。壺阪は一生この日のステージのことを忘れないはずだ。小曽根は言う。「僕がはじめて健登の演奏を聴きにいったとき、それはトリオだったんですが、彼がソロで演奏する姿が見えたんです。それで、何度も何度もソロをやってくれ、ソロをやってくれとお願いして、やっとソロアルバムを作ることができました。秋にはソロのコンサートがあります。」これだけの言葉を受け取る壺阪の重責は想像に難くない。押しつぶされるほどの信頼である。しかし、壺阪はただ小曽根の「見えた」という言葉を信じるしかなかったのだと思う。自らも自らの可能性に賭けた。そしてステージの中へ跳躍を試みた。それが底抜けに楽しかった。ステージ上で三人が方を組み、聴衆から惜しみない拍手を受けている自分が、また壺阪には信じられないかもしれない。でももうはじまってしまったのである。音楽の神から与えられた才能を、ひたすら返し続ける人生がはじまってしまった。音楽家の一生とは過酷なものであろう。作曲と演奏とで休む暇とてない。覚悟とともに歩み出した壺阪をこれからも応援したい。
わたしにはひとつの既視感がある。2003年3月20日、それはイラク戦争がはじまった日だった。その夜、札幌のkitaraホールで開かれた塩谷哲と小曽根真のデュオコンサートのことである。あの夜、確かにこの目で見たのは、ステージ上での小曽根との音楽対話の中で、確実に自由になっていった塩谷の姿だった。わたしは四半世紀も前のあの夜、あの場にいられてほんとうによかったと思う。それはあのコンサートがその後の音楽経験の基準点になったからだ。音楽家も変わるように聴衆も変わる。育つ。その後の、塩谷と小曽根の仕事を見ていれば、しかし、あのときはただのはじまりに過ぎなかったこともわかる。その塩谷も、会場にいて、聴衆のひとりとして壺阪のドラマを見つめていた。なんという美しい連鎖だろう。歴史なのだろう。こうして音楽は、ジャズは永遠に継がれてゆく。
あらためて壺阪健登におめでとうと言いたい。
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