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謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院①


事の始まりは昨年10月、私・りせんと田んぼ氏が1枚の絵葉書に目を奪われた事でした。

上より見たる大江橋及控訴院附近


「上より見たる大江橋及控訴院付近」
この絵葉書はかつて堂島川沿いにあった大阪控訴院について調べている際に見つけたものです。

右奥で凛と高塔を天に伸ばす赤レンガの控訴院の姿は、当時の景観を壮麗なものにしていた事でしょう。

絵葉書を眺めるうちにふと、中央の淡いグリーンで彩られた建物が目に留まりました。
三角屋根やいくつかの尖塔を持ち、それがどこか欧州の古城の一部かのような雰囲気を感じさせています。建物の規模も決して小さいものではなく、遠近感を考慮しても横幅は控訴院の半分以上はあるようです。
2人共専門的な知識を持ち合わせている訳ではありませんし、これまでに知り得た、かつて中之島に存在した建築物の中でこの特徴的な外観を持つものは思い当たりませんでした。
果たしてどんな用途の施設だったのか。誰が建てて、どんな内装で、いつ頃まで残っていた建物なのか。
何故かこの建物の事が無性に気になってしまったのです。

ここではその謎を解き明かすまでの過程、そしてこの建物にまつわる話を綴っていこうと思います。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

・古地図を調べる

まず絵葉書の場所が特定出来ている事から、控訴院を目印にして調べてみる事にしました。大阪控訴院は明治23年、大阪北区絹笠町・真砂町・若松町合併地に建てられたれんが造り3階建ての庁舎(大阪控訴院・大阪始審裁判所合同庁舎)から始まったものです。

この地におかれた庁舎は実は2度焼失していて、
1度目は控訴院内の出火によるもの、2度目は明治42(1909)年の大規模火災・北の大火の類焼によるものでした。
絵葉書の控訴院はその後、大正5年に再建された3代目の庁舎です。

・大阪市HP掲載写真より 3代目控訴院
水晶橋 むかし
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022315.html

suisho_o 控訴院 水晶橋

この写真の左端中央をよく見ると尖塔を持つ建物がちらりと写っています。
絵葉書に目を戻すと、控訴院とグリーンの建物の間に似たような小規模の建物があるように見えます。(大阪名所という文字の下辺りです)
手前に木造の旅館らしきものがあるため外観ははっきりと見る事はできません。ここで大正13年発行の「大阪パノラマ地図」の出番となります。

・大阪パノラマ地図(1924)
https://stro.li/a/20101015001

パノラマ地図 大


大正時代の大阪市街地を描いた鳥瞰図としては非常に精密な出来だったそうで、公共施設や寺社も細かく描き込まれています。大正5年以降なので控訴院も既に3代目の姿です。

大阪控訴院の位置は市内北部から流れる淀川を辿っていくと容易に見つけることが出来ます。
難波橋を少し下り、堂島川を挟んでちょうど中之島中央公会堂の北向かいにあるれんが造りの建物がそれです。

控訴院の西隣を確認すると、あの謎の建物らしきものが描かれていました。

パノラマ地図 回生病院アップ

尖塔を持ち、中庭をぐるりと囲うような造りです。しかしこれを見る限りでは控訴院との間には街路樹しかなく、小規模な建物を確認する事は出来ません。
また、肝心の施設名も分かりません。西側に「キヌカサ」と通りの名前のみ書かれているのみ。

もうひと息、とさらにパノラマ地図が発行された前後の年代の地図を探してみた所、ジャパンアーカイブ内で大正12年の「大阪市庁舎の界隈」図を見つける事が出来ました。

・大正12年の市庁舎界隈

大正12年 市庁舎付近

https://jaa2100.org/entry/detail/039618.html
簡略化されてはいますが、こちらは堂島川に平行なラインで建物が描かれており、施設名もはっきり書かれているようです。

控訴院の西隣の建物の前には「回生病院」と記載があります。
検索すると大阪市、池田市、西宮市といくつかの病院がヒットしました。
ここは素直に大阪市の回生病院のHPにアクセスしてみたところ、「大阪市北区絹笠町に私立回生病院として創立」との記載を発見。
今は移転して新大阪に拠点を置いているようですが、創立当時は控訴院と隣接する町名あるいはパノラマ地図にある通りの名前と同じ、絹笠町にあったのです。

これはこの病院の事で間違いないだろう、と納得しかけたのですが私も田んぼ氏もまだ腑に落ちない所がありました。
回生病院の看護部のページには簡単な沿革が掲載されているのですが、そこに創建時の建物として紹介されている写真は謎の絵葉書や地図とは全く違う外観のものです。

控訴院同様火災で2度焼失している為、姿かたちは変わっているかもしれません。ですが再建後の写真がどこにも載っていないため確認のしようがありません。
合わせて小さな尖塔の建物の有無も気になります。欲を言うともう少し建物を近くから捉えた正面の絵や写真が見たかったのです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

・天神祭りの模型を見つける

天神祭り船渡御a(くらしの今昔館)


ここでネットを検索したり、持っている本を探しても良かったのですが、もしかしてあそこなら…と足を運びたくなった場所がありました。「大阪くらしの今昔館」です。

「大阪くらしの今昔館」は天神橋筋六丁目の大阪市立住まい情報センタービル内8階~10階にあり、江戸時代の大阪の街並みの再現や、年中行事・季節ごとの座敷のしつらいを時代の移り変わりと共に体感出来る”住まい”をテーマにしたミュージアムです。8階には近代の大阪に焦点をあてた展示室があり、精密に造られた模型やからくりを鑑賞できます。
かつて天王寺にあったルナパーク、活気あふれるハイカラな心斎橋の街並み。もう眺めているだけで当時にタイムスリップした気分になっていきます。
その中に天神祭に関する展示がありました。
祭のメインイベントの一つ、「船渡御」は堂島川にて行われます。とりわけ大きなスペースで紹介されているのは、船渡御の様子を描いた大正10年の絵巻物を模型にしたもの。

船に乗る人々や神輿を担ぐ人々は勿論背景も細かく再現されていて、近代的な西洋風の建物が並んでいます。
それらをゆっくりと順に見ていくと、警察署、控訴院、そして私達が見たかったあの建物の姿があったのです。

天神祭船渡御(くらしの今昔館)


外壁の色は淡い緑ではなくレンガのように見えますが、尖塔の形や煙突などが絵葉書と同じです。絵葉書の色は塗り替えがあったのか、遊び心で着色したのかもしれません。
よく見ると建物右端の尖塔は、水晶橋と控訴院の写真に写っていた部分とぴったり一致します。絵葉書で別の建物に見えていた部分はこの右側の低い棟でしょう。こうして見ると途中で増築されたような造りになっていますね。

模型にはこの建物の解説は一切ありません。ですが、模型のおかげで建物全体のつくりが分かり、絵葉書・控訴院の写真・地図の情報がつながり、あの古城のような建物は回生病院だったのだと確信しました。

・絵葉書の発行年


はじまりの絵葉書はのちに私、そして田んぼ氏もオリジナルを入手しました。

絵葉書が発行された年は正確には分かりませんが、手掛かりは2つあります。
まず大江橋の北東詰めには大正12年に地上9階建ての堂島ビルヂングが姿を現します。絵葉書や天神祭りの模型にはそのような高層ビルは確認出来ず、パノラマ地図や市庁舎界隈の図にはしっかりと描かれていました。従って絵葉書は大正12年より以前のものであると思われます。

画像8


次に裏面の通信欄を見てみると、罫線が2分の1であることから大正7年4月以降のものだと推測できます。
(通信欄が無いものは明治6年~明治40年3月まで通信欄が3分の1なら、明治40年4月~大正7年3月まで)


ここで回生病院HPの沿革史と調べた情報の時系列をまとめてみると下記の通りになりました。

 明治33年 4月 大阪控訴院2代目 竣工
 明治33年 7月 回生病院 開院(初代本館 竣工)
 明治42年 7月 「北の大火」により、控訴院・回生病院焼失
 明治43年      回生病院2代目本館 竣工 
 大正2年     火災により回生病院2代目焼失
 大正4年     回生病院3代目本館 竣工
 大正5年5月     控訴院3代目 竣工

 大正7年7月~大正11年 絵葉書発行
 大正10年    天神祭絵巻物に回生病院3代目、控訴院3代目の姿あり

 大正13年    大阪パノラマ地図発行

 昭和20年8月    終戦
 昭和41年       大阪回生病院 移転(解体?)
 昭和49年1月    大阪控訴院 解体

2つの建物が揃って堂島川に並んでいた時期もぴったりで感動すると同時に、これらが既に失われてしまったものである事が非常に惜しくなりました。
戦火をくぐり抜けた建物でも人知れず消えていってしまう。
ただ、現存してないものだからこそもっと知りたい。

そんな思いがふくらんで、田んぼ氏と私はネットだけでは情報が得られなかった回生病院の姿をさらにさらに追いかけて行く事にしたのでした。

(本文:田んぼ・りせんの共同編集)


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