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謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院②設立由来と天神祭

前回正体の分かった謎の建物・大阪回生病院。
絵葉書の場所から昭和41(1966)年に大淀区豊崎に移転、平成17(2005)年に新大阪駅前に再度移転して現在も診療を続けています。


かつての場所は現在の住所で言うと北区西天満2丁目、堂島関電ビル(積水化学大阪本社)が建っている場所にありました。道を挟んで東隣には大阪高等裁判所。そこは勿論控訴院があった場所です。

実際にこの附近を歩いてみるとぽつんとちいさな石碑が建っていました。

小城藩石碑

注意していないと見逃してしまいそうなものですが、ここに佐賀県小城藩の蔵屋敷があった事を示しています。控訴院の敷地も元鍋島藩の土地であり、それに比べると小城藩の方は勢力としては小さいものだった事が分かりますね。

歴史上や関西ではあまり聞きなれない藩名ですが、大阪回生病院創立者・菊池篤忠の出身こそ、この小城藩でありました。

しかしながらもこの土地は元々菊池家の所有だった訳では無く、数奇な巡り合わせでここに病院を設立する事になります。

・大阪回生病院設立

初代院長の生い立ちや病院設立の経緯は中之島図書館所蔵の「大阪回生病院沿革史」に明記してあります。沿革史を発見してから田んぼ氏は図書館に通い、現代語訳をしてくれました。

以下はその中から抜粋した「大阪回生病院設立由」です。

https://ryugamori.hatenablog.com/entry/2020/07/25/210526

沿革史の序盤にはこのように篤忠氏の大阪への思慕、そして病院設立にかける情熱的な思いが記してあります。これまで図書館の貸し出し履歴が無かったため、沿革史はこの時を待っていたのか…と胸が熱くなりました。(こちらの原文は国立国会図書館デジタルコレクションでも公開されているので気になる方は是非ご一読下さい。)

不思議な事に病院を建てる土地の買収交渉は良い所まで進んだ後で取引中止になる事が続き、なかなか開業に至りませんでした。

最後に土地を快く譲ってくれた芝川又右衛門は淀屋橋にある近代建築・芝川ビルのオーナーであった芝川又四郎の父でもあります。又右衛門氏の邸宅は博物館明治村に移築保存されているので、現代語訳中の名前を見てピンときた方もいらっしゃるかもしれません。

芝川ビル

芝川ビル 1927(昭和2)年竣工


芝川又右衛門邸

  芝川又右衛門邸 1911(明治44)年竣工

さらに土地の買収評議員の1人である加藤市太郎は芝川又四郎と縁深い、加賀正太郎(ニッカウヰスキーの筆頭株主)の父でした。芝川家と加賀家は又右衛門・市太郎の代から親交があったようです。

初代院長の思いと、今なお活用されている建物に関わる人達によって中之島の地に回生病院が生まれたのです。

・回生病院と天神祭

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回生病院初代本館1900(明治33)年 竣工

初代の木造3階建ての建物の絵葉書は後日田んぼ氏が入手しました。回生病院のHPに掲載されていたのはこれよりアップで正面玄関を撮影したものです。こちらも当時の建物としては非常に可愛らしい外観をしています。
天心閣と呼ばれていた高塔は外に出ると回廊になっていて、ぐるりと大阪を一望出来るようになっていたそうです。よく見るとこの絵葉書にも天心閣にのぼっている人がいます。
創建時はまだ病院の前に建物が無い状態であり、船での患者の移送・物資の運搬も行われていたそうです。

この初代本館が建ち、病院が開院したのは1900(明治33)年7月25日。まさに120年前の今日の事。天神祭り本宮の日です。

現在は大川の上流に向かって行われている船渡御は、昭和初期までは堂島川を通って木津川の方へと向かうルートでした。前回紹介した絵巻物でも分かるように病院の周辺はお祭りの賑やかな雰囲気で包まれていた事でしょう。
後に入手した「最近10年のあゆみ(回生病院70年史)」には3代目本館での天神祭についてこう書かれていました。

毎年の記念の式のあと、浜通りに面していた眼下の診察室の窓から、たくさんのお客様達と一緒に見た天神祭も忘れられない想出の一つである。

今年は惜しくも天神祭りの船渡御は中止となってしまいましたが、病院の跡地へ足を運び120年前に思いを馳せたのでした。

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    大阪回生病院跡地(奥の道路のカーブに本館の面影が残る)   

次回は各年代の建物の外観や図面について触れていきたいと思います。


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