オタクの曖昧知識で「千子村正 蜻蛉切 双騎出陣 ~万の華うつす鏡~」を考えてみる

※ネタバレ注意

「千子村正 蜻蛉切 双騎出陣 ~万の華うつす鏡~」が終わって半月が経ちましたね、書こう書こうと思いつつ結構時間が経ってしまった…

私は考察を考えるのが好きなオタクです。でも仏教とか刀剣、歴史の知識がほぼゼロなので、刀ミュではそこ以外の考察をしています。
今回は色々な作品をヒントにしつつ、1部の構成について自分なりに繋がった解釈が出来上がったのでつらつらと書こうと思います。頭から最後まで全て書きますのでネタバレ注意です。

この双騎に関しては主演のお二人とも「各々が感じたものが正解」と言っているので、私の解釈は私にとっての正解であって、他の人には正解ではないと思っています、その辺は悪しからず。

公演情報はこちら👇


そして今回考察するにあたってヒントとなってくれた作品はこちら👇
・XXXHOLiC(原作)
・劇場版 カードキャプターさくら(1999年公開/アニメ)
・うる星やつら3 リメンバー・マイ・ラブ(1985年公開/アニメ)
・バイオハザード ヴィレッジ「DLC:シャドウズ オブ ローズ」
以上の4作と今まで見てきた沢山のアニメ作品から得てきたオタク知識で考えていきたいと思います。

今回1部の構成は本当に素晴らしく巧みに考えられていると思っていて、大まかに分けると「客入り」「現実」「廃墟」「月の間」「繭」の5つの構成で作られています。
まずすごいなと思うのが「客入り」の映像ですら作品の一部にしてしまうことですよね。初めて現地で見たときは「うわぁ綺麗だなぁ、丸い窓と四角い窓でちょっと見え方違うんだな」ぐらいにしか思ってなかったです。四季の移ろいを感じさせて作品に導入させる演出だと思っていた。
その意味ももちろんあると思うんですけど3回目ぐらいで別の意味に気づいたんです。

丸い窓からは大きな桜が見える。対して四角い窓からは小ぶりな桜が2本。そして物語が始まると丸い窓には蜻蛉切がいて、四角い窓には村正がいる。
つまり、あの景色はそれぞれから見える違った景色なんですね。
村正が「違う存在が見ている景色は果たして同じなのだろうか」と言う(台詞はうろ覚えです、すみません)
その通りで、蜻蛉切が見ている景色と村正が見ている景色が似ているようでいて決定的に違う。それが桜で表現されていて、それを実際私たち審神者に体験させてくれている。

大きな桜が見えている蜻蛉切は、確固たる逸話を持っていて、自分の存在に揺らぎなどないのでしょう。対して村正は自己肯定感が低く自分の在り方に想い悩んでいる。だから大きな桜は見えていないのでしょう。この辺は京極夏彦の「姑獲鳥の夏」に近しいものがあるかもしれませんね。
人の身体というのは、目に見えていても認識できないものがあるし、その見え方というのはメンタルにかなり影響される。物の心から励起された刀剣男士は一際「心の形」と「目が認識する世界」がリンクするのでしょうね。

話を戻します。
その後、2振は少し話をして蜻蛉切は去っていく。
そして空が真っ赤に染まる夕暮れに村正が独り佇む。

ここでポイントなのが「夕暮れ」「重なる2つの窓」「万華鏡」です。
「夕暮れ」というのは昼と夜の間、人ならざるモノが存在する時間。皆さんも小さい頃、夕方にまつわる怪談とかありませんでしたか?
私の地元では「夕方の4時44分にとあるトンネルを通ると吸い込まれて壁の落書きになってしまう」という怪談がありました。長く暗いトンネルだったので割と本気にしていて、その時間はそのトンネルに近寄らなかったことを覚えています。

そして重なる2つの窓。
窓といってもこれは単なる窓ではなく「それぞれから見ている世界の入り口」という意味があります。決して重なることのない2つの入り口が重なった時…それは異世界への入り口となりえるのでしょう。
そういう導入の物語をオタクは知っているものです。
そして窓が重なった瞬間、万華鏡の入り口が開く。

この「異世界の入り口」というのもオタクは色んなパターンを通ってきていることでしょう。今回の双騎を見たときに私が一番最初に思い出したのは「XXXHOLiC」の "壺中天" でした。
四月一日が大きくなった管狐を元に戻すために井戸水を満たした壷から別の世界に入り込むお話。あれは「壺」「水面」という物を媒介として世界を移動していますよね。今回はそれが「窓」と「万華鏡」でした。ちょっと近くないですか?
「壺」と「窓」とは世界を切り離すための「枠」であり、「水面」と「万華鏡」は己を写す「鏡」という役割があります。
ただ、今回万華鏡だった理由はもう一つあると思っています。
それは物語の根幹が「村正の心」ということです。
つまり万華鏡は村正の霊力に反応し、それを写し、増幅させることであの別世界を創造したのです。"壺中天"はすでにある世界への移動であることに対し、「万華鏡」は新しく世界を構築する力がある。ライブで使う "アンプ"みたいな役割ですね。めっちゃざっくらばんに言うとヒプノシスマイクの世界観に近いかもしれないです。
そういう力を持った万華鏡がなぜかそこにあった。「XXXHOLiC」で四月一日に「こんなに物がたくさんあったら必要な時に見つからないんじゃないですか?」と聞かれて「必要な時が来たらそれは必ずその人のところに来る」と侑子さんが返したやつですね。(台詞自体は多分違う)
だからあの時あの万華鏡が村正の元に来たのは必然であり、その後蜻蛉切が万華鏡に気づいたのも必然なのです。

村正の霊力に感化されて万華鏡はピンク色に色づいてく。その時点で村正は万華鏡に取り込まれているのでしょう。舞台上はそこに居たけども、意味合い的には村正は居なかったのだと思っています。

そして蜻蛉切が前を通りかかる。あの不自然な気づき方がまた絶妙でしたね。多分視界に万華鏡は入っていなかったのだと思います。
でも村正の霊力を感じたのでしょう。しかも万華鏡の霊力と混じった妙な気配を。だから万華鏡の前を通り過ぎようとしたのにふと気づいた。そして引き寄せられていく。アニメ的表現をすると、その万華鏡からはピンク色の気をまとっていたのだと思います。映像的表現です。
舞台化するにあたってすごく天才的引き算をした演出ですよね…

そして蜻蛉切が万華鏡を覗くとそこには村正が…
アニメであれば驚いて一度万華鏡を落としていたのではないでしょうか。でもただごとではないと思いもう一度覗いてみる。気付くと自分の身体は別の世界に入り込んでいた…

その後の森羅万象の映像は、万華鏡の中に入った蜻蛉切が見た景色なのかなと思いました。
アニメでよくあるのは「ここはあらゆる時空と繋がっている場所。出る場所を間違えるともう元の場所には帰れないよ」という場所。過去も未来も混在している様子は言ってしまえば森羅万象と同義なのでは…と思えます。
あの景色を見ながら蜻蛉切は深く、深く潜っていくわけですね。

これね「劇場版 カードキャプターさくら」が個人的によかったです。この作品は本の中の世界に仲間が捕らわれてしまって、井戸の水面からその世界へのアクセスを試みるって流れなんですけど(やっぱり「井戸」と「水面」なんだなぁとかも思ったり)、たどり着いた場所が双騎の廃墟に似てるんですよ…
特にさくらちゃんが夢の中で見た景色。頭上に四角い窓があって、一面水で覆われた廃墟だったんですね、久しぶりに見てびっくりしました…
で、頭上の窓が最終的に現実に戻る出口でもあったりして、めちゃくちゃ今回の双騎と世界観がリンクしている気がしたんですよね。さすがCLAMP…

話を戻します。
落ちていく蜻蛉切が辿り着いたのはとある廃墟。あそこって多分空間的にバグってると思うので、蜻蛉切と村正は一緒の空間に居るようでいて居ないと思っています。「Aくんは手前を歩いていて、Bくんは後方天井についている階段を登っている」みたいなやつですね、多分名称があるんですけど分からない…うる星やつらの演出でよく使われていた気がするなぁ。
だから私たちの目には同じ空間に村正と蜻蛉切が居るけども、互いは互いを認識することはできないのです。だから村正は「とても静か」と歌う。
ここで初めて柴一平さんが登場します。彼はとても重要、これは後ほどまとめて書きます。
柴さんの光を追うように蜻蛉切が歩みを進め、村正は独り歌う。
この辺は構成とはまた少し違うので割愛、とにかく美しいの一言しか出ない演出でしたね。村正を囲むように刀紋が描かれたときのあの不気味な音楽が大好きです。

ここから続く場面転換、これは階層の表現だと4,5回目辺りで気づきました。ヒントにしたのはバイオ8のローズ編です。記憶の中に潜る、深く潜れば潜るほどその人の核に近づくのです。

だから今回構成的には
1F→「現実」万華鏡を見つける
B1F→「廃墟」狂気の具現化
B2F→「月」自己矛盾の露呈
B3F(最下層)→「繭」心の核
という4つの階層を蜻蛉切が順に深く潜っていく、というお話なわけですね。

最近のアニメだと「Paradox Live THE ANIMATION」の#4でも夏準の精神世界に潜って彼を救うという話がありました。
アニメだとよくある表現なんですけど、これを舞台でやるっていうのが…もっくんすげえや…

「廃墟」では村正が自分の狂気に飲まれてしまいます。蜻蛉切はそれに触れることすら叶わない。あれはあの階層から弾き飛ばされている(村正が拒絶している)と感じました。心の扉が閉ざされ、また虚の回廊に戻されてしまい、糸からの攻撃も…。あの時蜻蛉切ひとりではきっと次の階層に行くことはできなかったでしょう。ではなぜ「月の間」に到達できたのか…
柴さん演じる「糸」が傍にいたからですね。あの「糸」だけは蜻蛉切に攻撃をせず、蜻蛉切に本体の槍を届け、次の階層に導いたわけです。

次の「月の間」。ここでは冒頭足元に満月が映されているのがとても印象的でしたね。背後には三日月。つまり「見えぬけれどそこに在るもの」という暗喩なのでしょう。見えるものと見えないものが同じ空間にある。それが「月の間」なのだと思います。

ここで少し中身にも触れますが、どこまでも蜻蛉切と村正を対照的に描いているのがおもしろいと思いました。
「月の間」の後半、村正は狂気と自己の狭間で戦い続けていましたね。とても痛々しかったです。あれは正に村正の自己矛盾そのものの表現でした。
対して蜻蛉切はどうでしょう。精神世界に潜る、というのはその主の精神に段々と浸食されていくものです。それ故に蜻蛉切も己が意味に疑問を持ち始めます。けれど、彼は村正と違って敵を斬った後に真理に気づくわけです。蜻蛉切が斬った遡行軍にはきっと色んな意味が含まれていると思います。弱い自分だったり、心の奥深くに在る悩みや疑念だったり、今まで斬ってきた人間だったり。でも蜻蛉切は自分の手で道を切り拓いていく。敵を斬るごとに自己の矛盾に苛まれる村正と真逆なんですね…エモいですね…

話を戻しましょう。
1階層目で拒絶された「廃墟」とは違い、「月の間」では蜻蛉切は村正と共に向こう側へ行く、という場面転換でした。これは村正のより深い部分に触れたことで村正の痛みに蜻蛉切が気づいたからですね。そして「本当は救われたい」という気持ちにも気づいたのではないでしょうか。だからこそ、痛みと苦しみを知った上で「俺も村正だ」と言う。
映像的に言うと、村正が糸たちと共に更に潜っていくのを見て自分も飛び込んだ、みたいな感じだと思いました。真っ暗な深海に沈んでいくイメージですね。
そうそう、この「月の間」で糸たちが "布" になったのも興味深いですよね。それもやはり深い階層に来て糸たちの力が強まったのではないかと思っています。糸が力をつければつけるほど、村正はそれから逃れることはできない、というわけですね。

この後、場面は2本の糸が蠢く映像になります。これ、1回サイドシートになった時に気づいたんですけど、「線」じゃなくて「点」なんですよね…皆様は気づきましたか?
技術的に「線」が難しいとは思えないのできっと「点」である意味があるんですよね…そこまで意図を持たせるのか…と感服しました。

そしてこの後にも感服です。場面が動き、再度「廃墟」が現れます。千秋楽がほぼ最後列だったので偶然気づいたのですが、ここの右上にある月、色が変わってるんです…
最初に「廃墟」が出てきたときは白に近い色でした。それはまだこの世界が揺らぐ前だったからでしょう。けれど村正の心に感化されてどんどん狂気が色濃くなっていった。だからなのか、この時の月は最初赤いんです。赤いといっても濃い黄色ってぐらいなんですけど。心象的にですね、彼岸花の色が染みついたって感じです。
でも、会場が回って繭が見えてくるじゃないですか。それと共にだんだんと「廃墟」の月の色が変わっていくんですよ…それこそに近い色に…まじかーーーーーって思いました。そこまでやるんだーーーーって。
村正の狂気が少しずつ、蜻蛉切という異質なものが混じったことで浄化されていく過程を表現しているのかなと思いました。ギリギリ白にはならないんですよね。その手前って色で月は見えなくなります。

そして辿り着いたのは最下層、村正の心の核ですね。
核は繊細で一番大切なものですからたくさんの糸で包まれ繭のようになっています。誰も触れることは許さない。脱ぐことができないなら内側に入ってしまえばいい。そんな村正の内の声が聞こえた気がしました。

アニメでよくあるのは「手を伸ばして!繭なんか俺が壊してやる!」みたいな熱血系の展開ですね。これはこれで熱いので大好きなんですが、村正派双騎は一味違いました。
「傍に居る」、肯定も否定もせず「仕方ないだろう」と受け止める。この結末には震えました。友情とか恋人の愛情とかだったら「救い出す」方がいいのかもしれませんが、この2人は家族なんですよね。
繭の冒頭、村正は暗闇を怖がり、ある意味茫然自失というように見えました。瞳からハイライトが消えてる感じ。アニメ脳でごめんなさい。

そんな村正に語りかけるように歌う蜻蛉切。そして蜻蛉切の声に少しずつ村正は自我を取り戻します。これまたすごいのが繭が色づくんですよね。
蜻蛉切が歌い始めてから少しずつ蜻蛉切の繭が紫色に。まるで世界が色づくように。そして、村正が言葉を返すようになると村正の繭もピンク色に色づく。そして互いの色が移っていく。この時、離れていた2人の心がようやく繋がったのだと思いました。お二人の演技も日に日に変わっていくのがまた素晴らしかったですね。

そうして2人自ら繭を破るわけです。自分の手で破るというのがいいですね。
その後場面転換で2人が歩くわけですが、ここの「蜻蛉切が繭を振り返る」仕草が好きなんですよね。まるで「なんだったんだこれは…」と言わんばかりの困惑。対する村正はスッキリした顔で歩みを進め、最後に繭を振り返って柔らかく笑う。そりゃ自分の精神世界だもんね、思い返せば蜻蛉切は完全に巻き込まれていたわけです(笑)
 

最後にたどり着いたのは一面の花に囲まれた「廃墟」。これはつまり1階層目なのですが、それぞれの階層は「村正の心」なので、最下層に変化が起きれば全階層に変化が起こるわけですね。
虚無が広がっていた心に色がついたのですから、廃墟も花畑になるのです。よかったね村正…月も白い月に戻っています。

こうして自己矛盾に整理をつけた村正ですが、1本の糸が漂ってきます。柴さんです。ここで村正は「厄介ですね」と言い、蜻蛉切は「それが生きるということだ」と言います。
これには色んな意味があると思いますが、ここでは1つだけ書きます。
それは柴さんの演じた糸は「村正と蜻蛉切を繋ぐ糸」だったのでは、という解釈です。

ここでヒントになったのは「うる星やつら3 リメンバー・マイ・ラブ」です。運命の赤い糸ってありますよね。主人公のラムはあたると運命の赤い糸が繋がっていると信じます。
実際映画の後半で2人が赤い糸で繋がっているという描写があるのですが、あたるの手には数え切れないほどの赤い糸が結ばれていたのです。

まぁここでの意味は「あたるって最低だね」ってことなんですけど、そうじゃなくて、人と人って赤以外の色の糸でも繋がっていると思うんですよね。
恋人なら赤色なのかもしれないけど、家族だったり、気の合う友人だったり、仕事のパートナーだったり、そういう "縁の深い" 人同士って糸で繋がっているんじゃないか、というのが私の昔からの持論なんです。
自分に害をなす人物だったら黒い糸、とかね。

だから、村正と蜻蛉切も糸で繋がっているんです。
この糸は切ってはいけない糸、村正にとっては必要な糸なんです。だから村正の周りを離れることはない。この記事でもちょこちょこ書きましたが、最初の「廃墟」で蜻蛉切を彼岸花の元へ導き、槍を届け、「月の間」へ導く。蜻蛉切の身体に纏うような動きはあったけども攻撃は一切しなかった。これもそういう意味があったのだと思います。逆に言えば本音を言えない村正を代弁して蜻蛉切にSOSを出していたのではないでしょうか。

これに気づいたときに話の全体的な流れに気づけた気がしたんですよね。私個人の見解ですが。

そして最後2人は別々の道を歩いて修行に向かっていく。最後に蜻蛉切が村正の様子を見守るのがいいですね、きっと村正はそのことには気づいていないのでしょう。愛しいですね。

2人が去った後、スクリーンが閉じて、四角い窓と丸い窓が交わります。
つまりはこの世界の出口ですね。単純にロゴを出して1部終わり、という意味もあるんですけど、ロゴのフェードインではなく、わざわざ2つの窓を重ねた、というのはそういう意味を持たせているのだと思います。
観客を村正と共に精神世界へ誘い、同様に物語の終わりを告げるゲートの意味も担っている。ロゴ自体に意味があったんだ天才~~~~~~ってなりました。

ちなみに2部冒頭の映像(過去映像が流れるところ)も、背景部分に蜘蛛の巣みたいなエフェクトが使われていて、そこまでこだわるのかと感服しました。感服しかしてないですね。すべてが素晴らしい作品でした。

ということで終わりです。

もっくんがこの話のきっかけにしたのが病室から見た窓ということで、多少なりともXXXHOLiCの影響を受けているのかなと感じたし、思春期にXXXHOLiCで色々価値観を培ったオタクとしては勝手に親近感を覚えました。

ここまで読んでくれた稀有な方、ひとつでも共感できる要素があれば嬉しいです。別になくてもいいのです、考え、感じることが大事だと思います。

アーカイブ配信、円盤発売したらぜひ色んな部分に目を凝らしてくれたら嬉しいです。それでは。

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