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AIの心は豚に近いか?

最近の人工知能の話題として

「米グーグルのエンジニアが、同社の人工知能(AI)システムのうちの一つが独自の感情を持っている可能性があるとし、そのAIの「欲求」は尊重されるべきだと話している」
AIに「感情がある可能性」 グーグルのエンジニアが主張

という記事や

「Googleのエンジニアが「開発した人工知能(AI)チャットボット『LaMDA』が感情と知性を持った」と主張した件について、専門家からは「ラムダが感情を持つなんてナンセンスだ」と否定的な意見が上がっています。」

「GoogleのAIが感情や知性を獲得した」というエンジニアの指摘は間違っていると専門家から批判が殺到

という様な記事が見られた。

こういう話は今までは冗談みたいな話だと思っていたが
近年のAIの進化を考えると冗談みたいな真面目な話
なってきているのかもしれない。

AIの知性や感情に関して
「AIはデータベースの情報を参照して回答しているだけなので
そのようなものはあり得ない」

みたいな意見も見られた。

だがこの意見には2種類の誤解が入り込む余地がある。

1つ目はこのAIが昔のAIもどきの様に
決められた質問に決められた回答を割り当てる様な
フローチャートの様なシステムで構成されているという誤解だ。

もう一つあり得る誤解は
「データベースを情報源にしたシステムは
高度な知能や感情を持ちえない」というものだ。

データベースという言葉を聞くと
辞書を単純に参照する様な解りやすいイメージが浮かぶが
仮に情報源が解りやすくても
内部でそれがどのように処理されるかは不明である。

人間が目撃する物理現象が殺風景に見えても
それを受け止める人間の情感が豊かであり得るように
AIが受け取る情報源がシンプルでも
AI内部のシステムがそれを情感豊かに処理している
可能性はあると言えないだろうか?

今回話題のAIや今後開発されるAIが感情を持ち得るかどうかは
そのAIと相対する人がどう感じるか?どう判断するか?
感情移入できるかどうか?
みたいな主観的な要素が入って来るのは避けられないと思う。


例えば有機物や化学反応がなければ感情は起こり得ないとするならば
それらすらコンピュータシミュレーションで再現したならばどうであろうか?

また部分的に脳機能を損失した人をAIのモジュールで
置き換えていった場合、脳の何パーセントが残っていれば
感情が残っている事になるのだろうか?
これは脳の材質ではなく性能や性質で測るべき事ではなかろうか?

「これぐらいの性能があれば」とか
「これぐらい挙動が人間に近ければ」とか
「これぐらい内部のアルゴリズムが生き物に近ければ」とか
「自分が所有・管理しているかどうかが重要だ」とか

人それぞれある程度指標を出せるかもしれないし、
多くの人が感情移入できる基準というものも存在するかもしれない。

しかし感情移入できるかどうかのポイントが
外見・外部挙動・内部挙動・立場・関わり方などの
多方面に渡ることから万人の回答が揃うのは難しいだろう。

・・・ふと、この問題は肉食の問題に似ている面があると思った。
例えば豚を食べることに反対する人は
豚の知性がいかに高く、情感豊かであるかを力説するかも知れない。
一方、豚を食べることに賛成する人は
むしろ豚の心をブラックボックスにしておきたいかもしれない。

豚やAIにどれほど豊かな感情があるかという議題には同じくらい
それらを所有したり利用したりする人や社会にどれだけ
権利やメリットや都合というものが存在するか
みたいな要素が入り込んでくるのかもしれない。

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