東葉高速鉄道建設の謎と京成線乗り入れ計画を追う!
東葉高速鉄道とはどんな鉄道か?
東葉高速鉄道は千葉県の西船橋と千葉県八千代市の東葉勝田台まで16.2kmで結んでいます。
西船橋で東京メトロ東西線と直通して、北習志野で新京成線、終点の東葉勝田台で京成線に接続しています。
東葉高速鉄道は京成線と並行して走っています。
そのため、建設されるまで、京成電鉄との関係で、計画が紆余曲折を経ています。
東葉高速鉄道の当初計画
東葉高速鉄道の計画が初めて出てきたのは、1972年のことです。
この時、西船橋から北習志野を経由して、勝田台と言う、今と全く同じルートの計画でした。
2年後の1974年、当時の営団地下鉄は営団勝田台線として、免許申請を行います。
完成予定は5年後の1979年この路線、すんなり作られると思っていたものの、思わぬ横槍が入ります。
東葉高速鉄道の計画ができた1972年は、成田空港が開港する予定の年でした。しかし、空港建設反対運動の結果、開港は6年遅れます。
その間、京成が作った成田空港までの新線は利用されることはなく、京成自身の土地取引の失敗も相まって、京成は経営危機に直面します。
そして、京成は営団勝田台線つまり今の東葉高速鉄道線の計画に猛反対します。
この路線ができると、勝田台から乗客が逸走する恐れが高く、京成が倒産しかねないと訴えます。
そして、運輸省は営団からの免許申請を凍結します。
1978年。運輸省は営団が申請した営団勝田台線・西船橋ー勝田台間の免許を京成へ移転するという案をだします。
これは勝田台ー西船橋を京成が建設して、西船橋で東西線と乗り換えができるようにするものの、電車は上野方面へ向かうと言うものでした。
これによって、スカイライナーも津田沼経由から新線経由に移行して、10分間短縮。津田沼経由の線路はローカル線化すると言うものです。
営団は「信じられない」と言うコメントを出し、地元自治体の千葉県、船橋市、八千代市は一斉に反発します。一方で、京成は受け入れを表明しました。
運輸省は色々と懸念点を挙げましたが、営団が国鉄と東京都が出資している団体であるので、千葉県内陸部に延長するのが無理がある。新線は高架線が多いため、地下鉄用の補助金交付をするのは難しいとの意見を出しました
西船橋には、京成線は乗り入れていません。この新線から京成との接続のパターンは4パターンが示されました。
①新線に「地下鉄船橋駅」を設置して、東西線の西船橋と京成海神駅を結ぶ路線
②東西線とは結ばずに、地下鉄船橋駅から京成海神駅を結ぶ
③地下鉄船橋から西船橋に結ぶ
④地下鉄船橋から国道14号線に並行して西船橋に接続、そのままさらに伸ばして季節の京成と結ぶ
地元自治体は営団による延長を求めるものの、翌年の1979年になっても運輸省は京成の別線として千葉県を中心とした第3セクターで臨むのが望ましいとの姿勢でした。
そして、地元は第三セクター設立は飲むものの、京成の別線としての建設は断固拒否の態度を崩しませんでした
さらにこの翌年の1980年。運輸省は妥協案を出します。これは新線を京成が建設する案に加えて、第三軌条方式案も出してきました。
まず、今の東海神駅と船橋駅との間にある海神第一保育園付近に地下鉄船橋駅を設置して、西船橋から地下鉄船橋までは東西線を延長。京成は海神駅から地下鉄船橋駅まで建設その先新線を走ると言うものです。
第三軌条方式は、営団、京成の双方が勝田台まで走り、京成の方はそのまま本線に乗り入れると言うものです。
加えて、鉄道建設公団が建設して、京成が買い上げさせる方針を定めます。
結局この年の7月、運輸省は、新線は東西線に直通。建設は第三セクター、運営は京成にすると言う最終案を提示します。
その後、東葉高速鉄道株式会社が設立され、建設が開始されます。
当初の予定は総工費955億円でしたが、バブル期
の土地高騰、資材高騰のあおりを受けて最終的には2948億円になりました。
地主の買取価格釣り上げ、及び千葉県の土地収容委員会の機能不全など、種々の問題が原因です。
また、建設費用の金利負担が重くのし掛かり、現在でも経営を圧迫しています。
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