第2夜『立川吉笑』

画像1

落語家になって4年目の冬、
『現在落語論』という本を書いた。

落語について書かれた本はたくさんあるけど
「笑いを表現する手法の1つ」として落語を切り取ったのは
たぶん僕が初めてだ。

ある先輩からは
「若手が偉そうに本なんか出しやがって」
と毒づかれた。

「空気を読んだ発言しかできない雑魚は、芸人を名乗るなこのタコが!」
と思った。

ある先輩からは
「落語は笑わせるための道具じゃない。
笑いよりももっと奥深くにあるものを表現するものだ」
と言われた。

『”笑い”を見くびるな、このクソが!』
と思った。

お前らが普段やってる
言い間違い、ダジャレ、あるある?
それもこれまで何人もが言い倒した、既視感しか無いもの、
そんなものを”笑い”にカウントするな。
新しい笑いを発明しようとすらしていないお前らは
俺の視界に入ってくるな、退屈なんだよ。


思えばあの頃が、精神的には僕のピークだった。


あれから数年が経って、仕事が増えてきた。
色々な現場に呼ばれ、収入も安定した。

落語を披露する場が拡がるにつれて、
時代が変わった事を知る。
信じ続けていたマインドは、
時代の転換期に、取り残されていた。

19歳の頃から必死に追い求めてきた”笑い”なんて
もはや誰も求めていなかった。
それよりも既視感のあるお笑い、
共感できるもの、癒されるもの。
そんなものが落語を、テレビを、
そしてお笑い界を覆っていた。

僕に遺書を残してくれた神様は
もはやどこにもいない。
鋭いナイフは丁寧に鞘に収められてしまった。

油断をすると僕も、気づけば僕じゃなくなっていた。


そんな時に『笑いのカイブツ』という本を読んだ。
ツチヤタカユキという著者の私小説。
そこにはかつて僕の信じていた”笑い”が描かれていた。
そして、その最終章。
ツチヤタカユキが落語に取り組もうとしていると知った。

これはどこかで会うことになるなと思った。

それはもしかしたら
あの頃の自分に会うことなのかもしれない。

相変わらず、あの頃の”笑い”は誰にも求められていないようだ。
嫌になる。いつの間に時代は変わったのだ?
それでも、今一度。
僕は僕が信じた”笑い”と向き合うと決めた。
ツチヤタカユキと、そう決めたんだ。

砕け散ったあの頃が、もう一度、生き返る。

立川吉笑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?