見出し画像

共依存

私は、パニックですら人に言うのを憚っていたけれど、それとは比べ物にならないほど隠しておきたかったものが共依存だ。

たぶん、表面的には話題に出ることはあったけれど、それがどれほどものかは恥ずかしくて、人に言ったことは無い。

なぜ書こうと思ったかと言うと、今それを直視できるところに来たと実感しているから。

以前、関わっていた人からも「パニックは相手を縛る為にやっている」と言われていて、本当にそうだと思ったものだけど

今は、「本当にそうだ」と実感している度合いが、深い。


今の症状を「パニック」と一言で片付けるのは難しくて、例えば何かあった時に、腕や喉、ハートのあたりなど、左半身がものすごくギューっと締め付けられたりして、強い痛みを感じたりする。

そういうものを今関わっている治療家の方に話すと「それは、自分で作ってるよ」と返ってきていた。

「その痛みを観ていけば、腕の方に種があって、またそれを観ていたら、空間の方に抜けていくと思う」と。

「直視できたら、それは終わるけれど、たぶん今の状態だと観る準備ができていないから、観えないと思うよ」と言われたのは、1月前位だっただろうか。

くそ〜。もうこんなことやめたいのに!ってその人と笑いつつ話していた。


そしてここ最近、身体がだいぶしっかりしてきて、「(私の状態が不安定だったため)前に言えなかったことが、言えるようになってきた」と言われるようになってきた。

身体の状態を観てアドバイスをもらえることは本当にありがたいこと。身体の安定感=心の安定感の度合いを無視したアドバイスは、キャパオーバーで壊れてしまう経験があるから。

そんなこんなで、ここ最近の話題は、「自分でしがみ付いている」ということだった。

簡単に書くなら、意味付け、過去からの囚われの世界にしがみ付いていて、色んなことをジャッジメントしない「今ここ」の生き方を選ぼうとしていないということ。

変わりたいと言う言葉とは裏腹に、過去に生きるメリットを手放していないんだという話だった。

まだ2週間前ほどは、それでも、「あぁ、なんでだ、こんなにもう、ほとほと、お腹いっぱいなのに」と言っていたんだけど、「もう、身体はできてきてるから、あとは覚悟だね」と。

その、覚悟と言う言葉が、妙にすーーーっと来ていた。

身体の状態を観ずに覚悟を迫られれば、おかしくなる。
でも、ぎりぎり準備ができはじめていたんだろう。


先週、覚悟の話になって、その足音が近づいてきていると感じていた時、ふと「共依存は、本当にお互いに足を引っ張り合うからやめた方がいい」と踏み込んで伝えてくれた。

だいたいのことは「面白い!好きでやってるんだから、いいじゃん!」とカラっと笑う人だけど、「ここは」というタイミングを察知してくれたんだろう。

「共依存は、自立できないとか、インナーチャイルドがどうとか、俺はわからないけど、相手を自分の思った通りにしようとすることが共依存だと自分は思ってる。

相手はただの鏡であって、そこから自分を知ることはあっても、相手を思い通りにコントロールしようとするのは依存だし、2人はそうやって共依存をしてる。

どっちかがやめれば、成立しないから、本当にそれはやめた方がいい」と。


その時に、しっかりと、自分が何をやめなければいけないかが、身体の次元から響いて立ち上がってきた。

自分が、そこにしがみ付いていたことも、やめたいと口で言ってもしがみ付いていたものが、目の前に出てきた。怖かった。

自分の空間を閉じずに、誰かの目線を受け入れようとすることは、凝り固まった「自分の観たいようにしか観ていない世界」にヒビを入れてくれる。

タイミングといい、伝わってくる振動といい、愛だなと思った。


私は、物心ついた時から、恋愛依存がすごかった。不安定な世の中に感じて、言葉を超えたコミュニケーションができる恋愛相手に、「つながり」を強く求めた。

人を好きになって、付き合っては、短期間で振られて絶望する。中学からずっとそうだった。「重たい」とか、別れる時によく言われた言葉。

友達を見ていると、みんなバランスをとって生きていて、適度に恋愛して、適度に他のことを楽しんでいて、どうして自分はそうなれないんだろう・・・と悩んできた。

パートナーがいない時の方が、自分は自分を縛らなくて、自由に飛び回ったりするのだけど、パートナーができると、そこ1本に意識が集中してしまう。こんなの良く無いと思いながら、抜け出せなかった。

良く無いというのは、相手の人生を極度に縛ってしまうからで、他のことに意識が全然向かなくなってしまうからで。その度合いは書けない。

今は、パニックになってまでやっているから、相当な度合い。


書いていても、痛い。

でも、今、色んな人と関わり始めたことや、自分の身体づくりをしっかりしてきたことで、直視しきれなかったことを直視している。

自分が相手を縛っているから、私は私に縛られている。
それを深く、突き刺さるように実感した。

身体が裂けそうなほどの痛みを、抱えられずにきたけれど、もう、パニックでどうなろうが、日々、相手を自由にすると覚悟した。

相手を自由にする。そんな誰かにとって当たり前にことが、私は苦しくて、その強い情動に耐えられなかった。

ここ数日は、それを受け止める、相手を自由にするということをやっている。

ダイブする先が観えているのに、怖い。


そんな最中、毎月参加している精神科医の方のミーティングに出た。

「パニックやる人はみんな詩人だと思ってる。あなたを見てると、とにかく言葉にする、詩にするというのをやったらいい。」

というのを言われた。有り余るエネルギーを詩に込めてみろと。
言葉にすることで自分が何を求めているとか、わかったりすると。

不思議だった。
何度か参加しているのに、今回は全然違ったのだ。

そして、ちょうどあるアディクションの方がいて、その人にもはっきりと言っていた。

今、ここからでも変われるから、(アディクションを)やめてくださいと。
アディクションは救いなんかじゃない、枷だ、自分を縛る鎖だ。
それを断ち切れるのは、自分しかない。
第三者のせいにしているうちは治らない。
過去に囚われているうちは、自分の力は出てこない。
自分で、自分を満足させる義務があると。

今回は、場に出てくるものがそういうもので、驚いた。
本当にそうだ、と。流れを感じた。


お互いに、痛みもパワーも強く頑固で
おおきな違いが世界観にあって
自分の正当性を守ろうとして
自分の世界観を譲らない
それでも、生きたい世界はどこか通じるものがあって。

だから、ちゃんと相手の存在をそのまま、みたいと思う。
自分で自分を生きながら。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?