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桜の花が咲いたら。
お天気に誘われて桜を見に出かけたら、切なくなった。
今日に限らず、毎シーズン、私はこんなことを繰り返している。
桜の花が咲く。
桜の花を見に行く。
切なくなる。
何故なのか。
そこで、TOCfEの思考ツール「ロジック・ブランチ」を使って、私の面倒くさい思考を整理してみた。
もし、桜の花が咲く、ならば、
結果として、桜の花を見に行く。
もし、桜の花を見に行くならば、
結果として、切なくなる。
桜の花を見に行ったのは、桜の花が咲いたから、とも言える。
この言葉のつながりは、問題なさそうだ。
では、切なくなったのは、桜の花を見に行ったから、だけなのだろうか?
言葉のつながりを考えると、ずいぶん話が飛躍しているのが分かる。
何か、切なさにつながる心の動きがあったはずだ。
もし、桜の花を見に行く、ならば、
結果として、桜の花は美しいと思う。
桜の花が美しいことを知っているから、花が咲いたと聞けば見に行きたいと思うのは自然な考えだろう。
もし、桜の花は美しいと思う、ならば、
結果として、切なくなる。
切なくなったのは、桜の花が美しかったから?
ここで止めると、ただの叙情詩で終わってしまうので、諦めずにもう少しだけ自分の思考をたどってみる。
何故なのか。
何故ならば、
美しいものをそこに留めておきたい(失いたくない)と思う、
かつ、
桜の花は散ることを知っている(いつかは必ず終わる)から。
論理も何もない、ただ感傷的な気持ちだけがそこにある。
これなら「切なくなる」で止めても問題なさそうだ。
だが、桜の花を見た時の私には、もうひとつの感情も生まれる。
それは、とても穏やかで、少しだけ前向きだ。
もし、切なくなる、
かつ、桜の花は来年も咲くことを知っている(それは同じ花ではないけれど)、
かつ、美しいものをそこに留めておきたい(ずっと忘れたくない)、ならば、
結果として、
私は、桜の花を見に行く。
また、次の春。
桜の花が咲いたら。
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