【書評】穀物は世界を動かした (ネルソン 『穀物の世界史』より)
日経BP社がKindleでセール中(2024年2月末まで)だった。
例えば、『ウォール街のランダム・ウォーカー』や『敗者のゲーム』などの名著が含まれていたので、他にも良い本がないか探してみた。その中で見つけ購入したのがS. R. ネルソン『穀物の世界史: 小麦をめぐる大国の興亡』(以下、本書)とダリオの『世界秩序の変化に対処するための原則』である。
本記事では、本書の内容と私が感じたポイントをまとめていきます。
(画像はOdessa as it was in 1854)
本書
ネルソン『穀物の世界史』
本書は2022年にアメリカで出版された『Oceans of Grain: How American Wheat Remade the World』の翻訳である。「穀物の海」と題された本書の著者はアメリカのジョージア大学歴史学部の教授を務める歴史学者でアメリカ史を専門としている。
本書は投資本ではないが長期投資に重要な視点を与えてくれると考える。
本書は小麦を中心に欧米の歴史を再構成している点で、定説と異なる視点を提供してくれる。
なお、穀物(Grain)と称しているが主に小麦を扱っている。欧米諸国にとって主要な食糧であるため小麦が重要な役割を果たしてきたのだ。
直訳した「穀物の海: アメリカの小麦はいかに世界を変えたか」の方が内容をよく表していると言えるだろう。海とは小麦を運搬した航路である大西洋、黒海、バルト海である。
定説では「帝国」が中心から辺境へと道を広げていくとされてきたが、本書では穀物の運搬者(商人)が先に存在して、その流通路ができる。そしてその要所で村落ができ、交易拠点は都市へと発展し、都市を支配する貴族が現れて、そこで税金を取って帝国に至ると述べている。つまり、小麦の道が帝国の成立に不可欠であり、それまで無駄な手数料を払わなくても良かった商人から、帝国は食糧と税を得て発展すると主張する。
一方で商人の移動は病原菌の移動にもつながり、時に発生したペストやジャガイモ疫病が発展を停滞させ、帝国を滅ぼしながら、歴史を紡いできたというのである。
近代の小麦を巡る競争は穀倉地帯であるウクライナ周辺を得たロシア帝国を発展させ、新たな帝国アメリカとの競争になった。大西洋を渡る三角貿易でも重要な役割を果たし、奴隷の食糧を補ったのもアメリカの小麦だった。そして、ヨーロッパの食料需要を満たす競争に勝ったアメリカが巨大な帝国になっている。
さらに農奴・奴隷制の崩壊(歴史学者は解放と評価)は人道問題ではなく経済問題に端を発しているとの見解も述べられている。西欧諸国は自国の地主を保護するために、安価な外国産小麦を批判した。その時に用いられたロジックが農奴や奴隷が生産している人道問題であったが、崩壊の決定打は外圧よりも内部の経済問題だった。
ロシアの農奴はクリミア戦争の配属による経済危機、アメリカの奴隷は南北の食糧生産にかかる競争が崩壊を招いた。その際にロシアの農奴は莫大な負債を負いつつも土地を得て、アメリカの奴隷は土地を得ることがなかった。一例として1861年のルイジアナ州では、不動産所有者の平均は5,258 USDに対して中央値が0という極端な格差がみられた、現在まで格差の問題が残っている遠因の1つになっているとしている。その後ロシア帝国は崩壊しアメリカがヨーロッパの食糧を巡る競争の勝者となった。
このあたりのアメリカ史は著者の専門分野であり詳細に記載されている。
本書は小麦と輸送路を巡る西洋の歴史書であると同時に、その重要性に気付き第1次世界大戦前のトルコで活躍したパルヴスを描いた物語でもある。この人物は一般的に共産主義者として知られるが、マルクス主義者の考えとはかなり異なるようである。港湾都市オデーサで育った彼は、マルクスの生産工場に焦点を当てる視点に疑問を持ち、運搬に注目した国際経済を考察している。本書は紀元前の小麦の輸送から始まりパルヴスがこの世を去る1924年までの歴史を小麦を通して俯瞰できる良書である。
古代から中世の小麦を巡る歴史の変動をパルヴスの様に既存の知識や経験に当てはめて解釈するには、西洋史とくに東欧や中東の歴史に対する私の基礎知識が不足しており知識と結びつけて理解できないのが残念でならない。
投資家としては、食糧の交換に貨幣が重要だが、食糧を支配するものが権力を得るのは近現代でも変わらないとの視点は新しく、興味深い。
著者は2011年のオデーサを訪れている。2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻で深刻な被害を受けた港湾都市であり、ヨーロッパの穀倉地帯の玄関口である。
この地は古代から重要な拠点だったようである。現在は単純に小麦を得るための戦いではないが、小麦の流通に影響した点では、過去に起こったこの土地をめぐる争いを思い出させる。
現在の日本は、本書の近世ヨーロッパの都市と同じく食糧を輸入に頼っている。食糧を支配するものが権力を得る歴史の事実を信じるならば、危険な状態である。幸いにも食料生産を支える優れた企業を有するのも、古代から農業生産が経済活動の主流だった日本の特徴である。
日本の現状はともかくも、長期投資において国際情勢を知る手がかりとして穀物の価格と流通は重要な指標になり得ると改めて再確認した。
と同時に、輸送の重要性は今も変わらないtkm (Ton-Kilometer)という単位は国連や世界銀行も指標としておりGDPと相関がある値となっている。食糧を輸送が国力を表すならば、資源に乏しい日本において物を世界各地から運ぶ商社が発展したのも理解できる。
もし世界の市場が停止しても原油の流通が滞っても、社会は混乱して大いな困難に陥るけれど直ちに生命の危機に瀕する訳ではない。しかし食糧の不足は直ちに生命の危機に繋がる。2023年夏の危機はオデーサから輸出した小麦に依存する地域を震撼させた。
日本の人口は減少しているが世界の人口は今も増え続けている。世界における食糧の需要は高まっている。この需要をどのように満たすのか。日本は競争の中でいかに食糧を確保するのかが将来の課題だと考える。
今後、国際情勢の変化や食糧問題について考える際には、本書が示唆する食糧の流通が権力の源泉と結びつくとの視点を考慮したい。
最後に著者のコラムが日本版の出版社に掲載されている。本書に興味を持った方にはお勧めしたい。
書誌情報
スコット・レイノルズ・ネルソン 著, 山岡由美 訳, 穀物の世界史: 小麦をめぐる大国の興亡, 日経BP日本経済新聞出版, 2023.10. 978-4-296-11535-8.
原著
Scott Reynolds Nelson, Oceans of Grain: How American Wheat Remade the World, Basic Books. 2022.2
主なリンク
出版社
著者情報 (所属機関ジョージア大学の公式サイト)
原著 (Kindle)
図書館の所蔵情報など (国立国会図書館)
穀物に関係する情報
統計など
公的機関
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