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小松未歩さんの『anybody's game』の「勝ち気な瞳」から考える小松未歩作詞。

 2022年。寅年。当たり前ですが、今から24年前も寅年でした。

 1998年。小松未歩さんの2ndアルバムの発売された年で、このアルバムに収録されている小松未歩さん名義のシングル曲4つもすべてこの年にリリースされました。

 今回はその2ndアルバムの2曲目で4thシングル『anybody's game』に関して書きます。    が、今回焦点を当てる歌詞はたった一点のみ 

 勝ち気な瞳は 生まれつきなの 覚えてて

です。ここから何を語るかというと、小松未歩さんの作詞における幅の広さです。

 このフレーズですが、最初に触れたときに違和感を覚えました。            その違和感とは…

 どこが勝ち気な瞳?

私はシングル『anybody's game』のジャケットの小松未歩さんを見てそう思ったものです。今回タイトルの↑につけた画像を見てください。勝ち気な瞳ですか?いや〜、勝ち気な瞳とは言えないでしょう。

 そうなんです。小松未歩さん自身は勝ち気な瞳ではないのに、そんな歌詞を書いて歌ってしまうわけです。まあ、小松さんが自分の瞳を勝ち気なものと認識していたら私の言ってることは頓珍漢になってしまいますが…。

 で、ここからが私の思う小松未歩さん作詞の長所。                

 小松未歩さん自身が曲の主人公の人物像と違っても、なんのためらいもなく歌えるし、主観を入れられる。

なんのこっちゃと思われてますよね。なのでここから私の中の3大歌姫で比較します。

 小松未歩さん、宇徳敬子さん、久宝留理子さんの3人です。まず、久宝さんですが作曲はたまにされる程度ですが、作詞の比率は高く代表作『男』や『早くしてよ』は久宝さんによる作詞です。

 そんな久宝さんの特徴は、久宝さん=主人公。そのままな印象です。         実際の久宝さんのことは全く知らないけど、どういうわけか久宝さんの曲を聴いてると、久宝さんて男見る目ないなぁ〜、と思ってしまうんです。

 そういう面で、久宝さんがもし『anybody's game』を書いていたとしたら「勝ち気な瞳は 生まれつきなの 覚えてて」という歌詞は書ける可能性はあります。ただしそれは自分が生れつき勝ち気な瞳であると認識したうえでのことです。全くそんなことを思っていなかったら書けないし、歌わない。そんな感じがします。

 小松未歩さんの場合は自分が勝ち気な瞳であろうがそうでなかろうが、言ってみたいな、くらいの気持ちがあれば平気で書けちゃうし、歌えちゃう感じがします。

 そして宇徳敬子さん。初期の頃を除けば自ら作詞作曲を手掛けて、自身で歌われてます。宇徳さんの場合は曲の主人公と宇徳さん自身の人物像は一致しなくても平気です。ただし曲の主人公になりきらないというか、第三者的な態度をとります。

 なのでもし宇徳さんが『anybody's game』を書いたら、

 勝ち気な瞳は生まれつき

で終わってしまう感じです。せいぜい、なの、までです。覚えてて、みたいな言葉は入れない印象です。

 久宝さんは勝ち気な瞳ならば小松さんと同じ歌詞を書けるけど、そうでなかったら書けない。

 宇徳さんは勝ち気な瞳であろうとなかろうと、勝ち気な瞳は生まれつき、までは書けるけど「覚えてて」なんていう主観を入れた言葉を乗せない。

 自分自身が曲の主人公とタイプが違っていてもその主人公の人格でセリフを入れられるし、歌える。小松さんの作詞には宇徳さんと久宝さんを足して1.5で割ったような幅の広さを感じます。

 だからいろんな方々に曲を提供できたのかな?と思います。

 「君」や「僕」も小松さんはさらりと使っているし、歌ってます。宇徳さんや久宝さんでは「君」「僕」はかなりレアな人称代名詞だったりします。

 私は広く音楽を聴いた人間ではないので断言できませんが、小松未歩さんはかなり自由度の高い作詞家ではないかと思います。

 今回は『anybody's game』という曲の歌詞から見た小松未歩さんの作詞の特徴を考えました。もし歌詞解説を期待されていた方にはなんだか申し訳ないです。

 次回は歌詞を中心に考えます。ちなみに次回の曲『チャンス』です!よろしくお願い致します。

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