2011年8月14日

Twitterを始めてから日記を書く回数が劇的に減った・・・それが、自分にとって良いことなのかどうかはわからないけど、独り言のように『つぶやく』ことができるのは、なんか心を楽にする。朝の鳥たちのように、それぞれ思い思い勝手にピーチクやってるってのは、『自由』だなぁ・・・

そのTwitterの画面上に『おすすめユーザー』というのが出てくるんだけど、なんか知ってる作家の名前とか出てたら検索してみたりする。そこで、彼らにつての評論や、自身のインタヴューなんかが読めるのは、書物に代わるネット時代の醍醐味だ。それは自分自身に置き換えて考えることで、たいへん勉強になり、逆説的に自分の意思を明確にさせてくれる。

たとえば・・・「作品をちゃんと見てほしいという思いが強かったんですか?」というインタヴュアーの問いに、自分でギャラリーを作ったという、ある作家はこう答える。

・・・「とくにどういう人に見てほしいというよりは、同じ人ばっかりに見てもらってもしょうがないですよね。作品はやっぱり人の助けになることが絶対にあると思うし、アートがお金にならないとか、無意味とかいらないものとか、そういう考え方はすごく嫌いなんです。逆に、こう思われる社会がイヤだと思って、環境を少しでも変えたいと思ったんです。少しでも多くの、広い範囲の人に見てほしいし。」

そこで自分は、自分の場合を明確化するのだ。自分の場合は・・・「たぶん、誰かはわからないけれども、ずっと同じ人に観てもらいたいと思っています。いろんな『同じ人』。弱い人、強い人、いろいろいるだろうけど、みんな『同じ人』。アートがお金になるとかならないとか、意味があるとか無意味とか、そんなことはどうでもいい。要は、初めに衝動があるかないかだけです。自分にとって、その『同じ人』に観てもらうことを考えて、ずっと絵を描き続けることは、まったくもって可能だと思います。」というふうに『独り言』を言うのだ。もちろん、いろいろな『同じ人』に向かって・・・

僕は、自分の作品に対するある種のオーディエンスを信じている。彼らは、彼らの時計でちゃんと成長していく。その、彼らの成長速度と自分の成長速度のあやふやな交じり合いが、展覧会の感想として聞こえてきたりすることが、単純に楽しいのだ。そして、それを失うことになるとか考えると死にそうになる。

結局、制作すること自体は個人的であり、誰の干渉をも受けまいとするが、完成後の作品達においては、彼らに観て欲しいと願う自分がいる。誰でもない『彼ら』に、だ。

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