8月1日

いつものことだけれども、制作はサクサクとは進まない。
そう、ほんとにいつものことだ。

世の中のいろんなことに、目が奪われ過ぎている。
でも、眼を反らしてはいけないことがある。

レゾネを開いて、過去のドローイングを見てみる。
改めて、戦争反対をテーマにしたものが多いことに気付く。
自分はいつだって戦争反対だったじゃないか!

ガザやウクライナのことでTwitterを埋めていくと、
面白いようにフォロワーの数が減っていく。
フォローを解除する彼らは、戦争賛成なんかじゃなくて、
単純にそういうものを見たくないだけなんだろう。

しかし、僕は見る。
ガザで生きる医師のツイートも、少女のツイートも。

決して、自分が何か救済できるとは思っていない。
ただ、何が起こっているのかを見る。

自分は右翼でも左翼でもない。
力によらない世界平和を望んでいるだけなんだ。

かつてヨーロッパに12年間住んで、
一度も日本という国家を誇れることはなかった。
国家、政を行う政治家たちを誇ることは出来なかったが、
日本の文化、伝統、革新していく技術に、働く人々、
それと、田舎に住む普通の人々の暮らしは、
かのクール・ジャパンよりも、胸を張って誇ることが出来た。
というよりも、ヨーロッパで出会った人々が、
そういう日本を称賛してくれたのだ。

日本を離れたことで、ドメスティックな考えに陥らず、
ヨーロッパ的な視野で母国を見ることが出来ていたと思う。
また、韓国や中国、他のアジアの留学生と接して、
アジア諸国から見た日本も感じることが出来た。

留学生という、異国の中での同じ境遇で語り合うということは、
その地でのマイノリティという共通意識が作用して、
極めて自然に、人間同士として話していた。
彼らの母国に在る観念的な日本像を超えて、
彼ら自身が彼ら個人の考えを持つことが出来ていたからだとも思う。

僕自身、元々は自由主義者のように適当に生きてきた。
けれども真に自由や平等や友愛に関して考えるようになったのは、
12年という時間を、ドイツ人やアジア人たちと接してきたからに違いない。

「あなたは、何人か?」と聞かれれば、
「国籍は日本人だが、基本的に自分は人間だ」と答える。
「大和民族か?」と問われれば、
「わからない。自分は人間だ」と答え続ける。

僕の祖先は、ずっと東北の果て青森に住み続けていた。
大和ではなく、蝦夷(えみし)と呼ばれた人々が祖先だろう。
けれども、僕は国や民族の中に自分を埋め込みたくはない。

ずっと「自分は、人間だ」と答え続けるだろう。
何故なら、その「人間」という言葉が好きだから。
この地球上に住む生物の中で、
唯一「夢」を持つことが出来る生き物、
それが「人間」だから。

ずっと「人間」でありたい。

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