大きな世界と小さな世界

・・・ずっと前に書いたテキストが出てきた。誰かの音楽関係の文章に影響されて書いたのを覚えている・・・

ギャラリーイメージというものがある。いわゆる各ギャラリーが持っているカラーのことだ。たとえば2000年代前半までの小山さんのとこだと、村上&奈良でマンガ、佐谷さんのとこだと文学で、タカさんだとクールセンス、ミズマさんになるとアバンギャルドみたいなかんじかな?世界的に俯瞰すると、こうした傾向はだいたいにおいて小さなギャラリーに多い。それはオーナーの好みもあるだろうけど、最初からマーケットを意識すると、もともと資本が少ないうえに力が分散してしまい斜陽してしまうからだ。『マーケット』のように経済と直接結びつくところには激しい競争が存在し、プロモーションの差によってほとんどが決定されてしまう。そんな場所で戦っていくには一つのことに集中するしかない。この考えは、音楽業界と似ていて、6、70年代にR&Bで一世を風靡したモータウン、バブルガムのブッダなんかは、それで成功したといえる。もともとはR&Bとジャズ専門だったアトランティックがROCKを扱い始めたように、その成功というものの延長にあるのが、さらなる成功のための拡大だ。つまり大手になればなんでもそろってしまうということになる。けれども、不特定多数のオーディエンスを相手にしなければいけない巨大な音楽業界にくらべると美術業界は小さい。成功したギャラリーをみていると、どちらかといえば敷居の高い高級ブランドショップに似ている・・・

ここで何を言いたいのかというと、前述した成功についてだ。マイナーからの最初の成功と、その後のさらなる成功との質の違い。さらなる成功を手にすると、戦わなければいけないことが急に倍増する。それはより大きなサークルへの参入であり、そこでは初志というものがどれだけ物理的な武器になりえるのだろうか疑問だ。

レコード会社を思うと、僕はあくまでもカラーを失っていないレーベルが好きで、そのカラーは人格と呼べるくらいのもので、たとえばUKトラッドのトピックなんかは何を買っても失敗のない何代も続いてる老舗のようなものだ。店は閉めたけどヴァンガードやポピー、ラウンダーのフォークシンガーにはずれはない。広げすぎた店だと、もはや絶対的な信用はなく、店構えや店主や番頭さんの顔なんか見ずに自分の眼で判断しなきゃいけなくなり、それもまたいいんだけどなんか寂しい気がするな。プロモーションも必要なのはわかるけど、作品自体がプロモーションすることを前提に作られてるようなものは、なんか好きになれない。最初からオーディエンスのことを意識して作られるもの。作品の見せ方ではなく、作り方がそこに終始しているものが見えると気持ちが貧乏になっていく。最近、ほんとに昔のレコードばっかり聴いていて、良質な音を提供してくれたマイナーレーベルのレコードをターンテーブルに乗せるたびに、目に映るレーベルのマークに胸がじぃ~んとかなってしまう。マーケットでの大きな成功とは無縁に、好みに徹してリリースし続けたレコードを僕はずっと聴き続け、そのたびにレコードの真ん中のレーベルと顔を合わせるのだろう。

70年代『Post Card』の大ヒット後、プロデューサーだったポール・マッカートニーのコマーシャル路線に決別して、本来やりたかったふうに進んだメリー・ホプキン。決してポップではないけど『EARTH SONG』は、乾いた喉に、コーラやジュースではなく自然の澄んだ清水が流し込まれていくような感覚だ。

大成功したミュージシャンのほとんどは、お城に住んだり自家用ジェットで移動したり、高級ホテルのペントハウスに泊まったりしてる。それが似合う人もいるけれども、僕が好きな歌詞はそこからはなかなか生まれにくい。かと言って四畳半フォークもまた非現実的だ。金があるかないかではなく、自由であるか?現実的であるか?喜怒哀楽はあるか?そこに希望はあるか?・・・などと考えている。そして、やっぱこれだな・・・柏木達也の言う「そこに愛はあるのか!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?