High, Low and in Between

震災を体験してから、安穏な自由さから自然脱皮して、野良で生きている犬猫のように存在自体への危機感を肌で感じ、それを問うことで今までの足跡の大方をキオツケするように反省していた。その反省の中で、まったく地に足がつかない状態で制作していたように思う。しかしながら、やっと来年の個展の展示ヴィジョンがクリアに見え出してきた。自分らしくない禁欲的な真面目さに、ちょっと縛られすぎてたな。そう気付くことで、過去の自分を越えるような意識で制作する心構えは持てた。先へ進む、というよりも、今再び学生のように学ぶところから、何かしら己の個性を開拓できるのではないだろうか。二歩戻ってから三歩進む感じ。自分は明らかに、以前よりも鷹揚な意識を持つことが出来てきた気がしている。

古典やアカデミックな美術が好きで、近代の美術も好きだ。己の悩み出ずるところから生まれる芸術も、造形理論を追求するところから生まれる美術も好きだ。ただ、全てを受け入れ好いているわけじゃない。ごちゃまぜの次元の中に存在している中で、良いものは良いのだ。そして、良くないものは良くないのだ。その基準は美術史や博物館学的な観点からではなく、個人的な思考と造形論的な視点からだが、それでいいのだ!考え、手を動かすのは自分なのだから、それでいいのだ!ごちゃごちゃ言う人は、言ってればいいのだ。

肌で感じ、思考し、制作することもせずに、机上でテキストを書いている、賢くも言葉の中で思考し感じている人にはわからないものなのだ。「幼児的な欲望の稚拙な垂れ流し」だとか「小汚い白痴的な絵」だとか僕を批判、というよりも、論ずることすら無駄と、批評家自らが稚拙な屈辱的単語を垂れ流すよう使って貶すことに終始した(かくも幼稚なる「現代美術」『ボイス』2001年10月号)浅田彰という人は、絵を描く苦しさや楽しさなんてわかるはずがないのだ。否、そういう感情すら持ち合わせていないのだろう。学者というサークルのお山のてっぺんに座っているだけのように、僕には映る。てっぺんにいるから、偉いことは偉いのだ。きっと一生偉いのだ。そんな偉い人は、絵を描くことも、おおらかに詩を詠うことも出来ないじゃないか。つうか、何でも自分の想定内の机上論者だよなぁ。そんな人なんて、もうどうでもいいや~。

そんな偉い人の著作を、あの屈辱的な言葉を投げつけられた日に、僕は古本屋に売ることも、資源ゴミとして出すこともせず、ただ火をおこし焼いた。自分が興味を持って買った本を焼くなんて、気持ち良いわけはないはずなのだけど、めっちゃスカッとした。それ以来、ほんとに、もうどうでもいいや~。

来年の個展のタイトルを決めて欲しいと美術館側から言われ、あれこれ考えていたのだけど、浅田の本を焼いている時を思い出したら、ポッと浮かんだ。

『High, Low and in Between』・・・なんか、ポッと浮かんだそのまんまなんだけど。

人里離れた森の中にいて、あるいは街角で立ち止り、感じ考えたりしている自分。そしてまた歩きながら考えたり、絵を描いたりしている自分。賢そうな人たちと会話して知ったかぶる自分、無知の知を知る子供たちと話し合い笑ったりする自分。美術史は好きな学問で習うのも自習するのも好きだし、学校のテストで良い点を取る自信もある自分。そして、とってもマイナーなオタク的音楽嗜好の話や、完全懲悪なディズニーアニメも、皮肉なイソップ童話も好きな自分。嗚呼、ラ・フォンテーヌ!

そう、何かはっきりとポジションを決めて生きるなんてまっぴらだ。そんな自分ならば、そこから生まれるものたちは、時に崇高で時に下世話、時にポップで時にマイナー、あるいはその真ん中あたりをアベレージなく漂うふうな意識。それでいいじゃないか。それで、いい。それが、いい。

人の生き方にケチをつけんなよ。オーディエンスはお前じゃない。見んで栗。つうか、いろいろ言っといて見てたら笑うけど・・・

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