ベニスに行ってきた

ベニス・ビエンナーレ。2年周期で開催される、おそらく世界一の国際美術展だ。しかし、かつてヨーロッパに12年も住んでいた自分だけど、3回しか訪れたことがない。美術をやっている者として、なんたる勉強不足!と、落ち込む・・・なんてことはない。実を言うと、そんなに興味があるわけではないのだ。でも、国別パビリオンでのその国を代表する作家の展示や、街中のいろんな場所で開催される展覧会を観たい気持ちはすごくあるわけです。今回は縁あって4回目の訪問となったわけなのだけど、なんとオープニング日に訪れることができたのだった。

ロザ・マルティネス企画の展覧会もよかったのだが、やっぱり国別パビリオンがビエンナーレの醍醐味だ。恥ずかしながら、入館待ちに長蛇の列が続くイギリス館とアメリカ館は観なかったけど、ドイツ館とチェコ+スロバキア館が良かった。スカンジナビア館の絵画作品も良かった。日本館の束芋のアニメーション作品は、鏡を使った展示方が成功していた。そして、今回訪れて自分を揺り動かしてくれたのは、アルセナーレ奥の木々に囲まれた小さな庭で行われていたジェラティンのパフォーマンスだった。電話ボックスほどのガラスの溶解炉が建てられ、背後には山のように薪が積まれている。その脇には3畳ほどの小さなステージ。ガラスの破片を溶解炉に投入し、薪をどんどんくべて溶かし続ける。ドロドロになったガラスを取り出しては、芝生の上にぶちまける。ステージではずっとバンドが演奏し続けている。僕らは、ウッドストックの聴衆のようにそんな風景に溶け込んでいる。ジェラティンに傾倒しているアイスランドの2人組みMOMSが、全裸でパフォーマンス開始。いつの間にか僕もマーカーを握り、彼らの体にラクガキし始め、演奏が終わったJAPANTHERのバスドラムにも描いてしまう・・・といった状況だ。

ベニスを去る前夜、ジェラティンのフローリアンと、彼らのパフォーマンスを手伝ったロンドンの女の子、溶けたガラスをぶちまける役のベルギー人にアメリカ人。ルーマニア館の展示作家のアンネッテ・モナサリ、小山さんとはまちゃんと、魚市場のある運河沿いの石畳に寝っ転がって、飲んで、酔っ払った。そこで初めて、この旅で得たものがなんだったのか少しわかった気がした。

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ベニスでは、アートフェアとは違う生のアートに久々に触れることができた。今の空気に包まれたアートだ。いままで自分は長らく路上をふらついていたような気がする。そして久々にギャラリーや美術館に足を踏み入れた気分だ。アートシーンから、ちょっと離れていた。昨年は東京でセラミックによる個展をしたし、NYでは新作を含む回顧展的な展示も行った。でも、いつも誰かが助けてくれて、何か居心地がよく、障害物のない表通りを歩いているようだった。いつの間にかゴミ収集車が去った通りを歩いていたような感じだ。再び、自分ひとりの右手に握った筆や鉛筆から繰り出されるイメージを、紙にキャンバスに、確保する日々が本格的に始まる。つまづき、よろめきながらゴミがたまった、自分に似合った通りを歩く。それは、メインからひとつ横に入ったような通りだな。自分にとっての教室であったところかもしれない。

・・・なんだ、結局今もまだ路上にいるんじゃないか!早く美術館とかにも入っていかなくちゃな!ほんとの冒険は、いろんなことに縛られてしまった大人が、鎖を解き放って飛び込むものだ。理由なき反抗は振り返っても霧の中だ。何かわからないけれども、すごく大きな冒険に出発する気持ちだ。

自分のほんとの言葉は口から出てくるものじゃない。
こうして文字にするものでもない。
なにか眼に見える形にしていくものだ。

虚構の現実に答えはないのだ。
脳みそだけではなく、体を動かしながら考えるべし。

意味の無い怒りを捨てよう。
しかし、怒りの気持ちを忘れずにいよう。
楽しみの影にある哀しみを感じ続けよう。
哀しみの向こうに喜びを見つけよう。

何度も、何度でも自分に渇を入れて、自分の言葉を絵にしよう。
うまくいかなくても、進むことはやめないでいるべし。

どこにいても自分を保ち続けよう。

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