4月10日

アベレージを保つように、コンスタントに一定のレベルをキープしていくような制作は自分には無理だ。技術的にも考え方的にも決まった方法なんて、依然として無い。いつも、これまでそうしてきたように、意識するとしないとに関わらず手を動かしてみて、線を引き、何か引っかかる線が描けた時に、どんどん追加していく。それが上手くいけば、後は勝手に画面がどこをどう描くべきかを示してくれる。

それでも、自分は自分の画面だけを見ているわけではない。人を見て、自分を見る。よく、人と比べて「自分はダメだぁ~」とか言ってる人もいるが、ダメだと思えば、いつでもギブアップすればいいのに、「ダメだぁ~」と言ってる人に限って、続けていく・・・不思議だ。ダメならば、やめれば楽になるのに・・・きっとプライドが高いのだろう。僕の場合は、すごい人を見つけた時には、決して競争しようと思わず、その人がしていることをしない、ということを心がけているということに気がついた。

たとえば、村上さんがアシスタントと共に数え切れないほどの手数で、完璧に絵を仕上げていくのならば、自分は数え切れるくらいの手数で、どうにか勢いと発想、ピンポイントな感覚だけで絵が出来ないかを考える。まったくのアナログに加えて、勢いで描くので出来不出来の差は大きいけれど、数をこなすこと、自分の筆致をものにすることで、人と比べられない個性的な絵を描けると思うのだ。

また、ある決まったテクニックで描こうとするには、自分は忍耐力も技術もイマイチな気がしている。つまり、何度でも同じものを同じように完璧に描くという手法を捨て、いつもどうしてこういうふうに描けたのかわからない描写を心がければ、それが(やっぱり限り無く数をこなすことで)自分にしか出来ない、いわゆる個性的な技法となるのだろう。

そして、時勢に追随するような作品を控える、ということ。今の世の中のトレンドであるものを扱うのは、他の作家が一生懸命にやっている。自分もそこに加わり、オーディエンスありきな作品を作るのはやめるということ。世の中を見渡して表現に使えるものを探し、オーディエンスありきのリアクショニストの才能は自分にはない。なるべく自分が持っている人間としての根源的な感情や、美術を学んだことで得た古今に共通する美意識に基づいて作るということだ。50年後、100年後の人類が僕の作品を鑑賞する時、そこには、この時代に生きる自分が50年前、100年前・・・いや、それ以前に作られた美術に感動したものと同じ要素がなければならない。それは国や世代や環境を、越えていなければならないということだ・・・なんて壮大なんだろう。そんなこと、やっぱ、自分には出来ないわ~~~。考えちゃうと無理。

・・・けれども、意識としては、洞窟に絵を描いた人々や、いろんな宗教画家、印象派や表現主義やら何とか主義の人々・・・今でも僕らの心に訴えてくる、そんな共通するものが自分の作品にもなければならないということだ。他の動物たちには持ち得ない感情を、常に心に抱いていなければいけない。

そして、学問であってはならない。美術を学問にするのは自分の役目ではない。自分は・・・とにかく作るだけだ。とにかく、作るだけだ。

以上は、僕自身が僕のために思っていることだ。世の中には、きっといろんな役割りがあって、人々が相応にうまく適合していると思う。だから、人を信じて、自分は自分が出来ることをするべし!HHL'G!

今度の個展のことよりも、その次の展覧会を考えてる・・・

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