こどもの日に

僕が生まれる前、兄たちが子供の頃は、
父は神主で、山のふもとの神社の社務所に住んでいた。
母はいつも社務所の畑を耕したりして家にいたし、
近所の人たちにも恵まれて兄たちは割りとかまわれて育った。

その後、父は元々継ぎたくなかった神主をやめてしまい、
公務員試験を受けて市役所勤めすることになり、町に引っ越した。
その頃に、僕は生まれたのだった。
親は共働きになり、自分はかまってもらう時間もなく、
まったくの放任主義の下で育ってしまった。

ほんとうに一人ぼっちで過ごした時間が多かったのだけれども、
それが当たり前だったので、寂しいという感覚を持ったことがなく、
自然や動物たちと戯れることが好きな子どもだった。

僕の記憶は、借家暮らしを経て、
丘の上に小さい平屋の持ち家を建てて引っ越した3歳頃から始まる。
だだっ広いなだらかな丘の上に、家がポツンポツンと数件建っていた。
隣の家には羊がいて、近くには馬を飼っている家もあった。

それが、小学校を卒業する頃には、でこぼこ道は舗装され、
小川はコンクリートのU字溝に変わり、新しい道もどんどん出来て、
あっと言う間に普通の住宅街になってしまった。

けれども、そういう変化を僕は喜び、舗装されたばかりの道路で、
暗くなるまで、ただただ自転車に乗るだけで遊んでいられたし、
どんどん延びていく企画サイズのU字溝は、
未来へ繋がる新幹線の線路の様に見えた。

平屋の家も、増築して2階建てになり、カラーテレビやステレオがやって来た。
ラジオから流れる歌を待つことも少なくなり、レコードを買い始めた。
カセット・レコーダーが発売され、友だちとレコードの貸し借りをして、録音した。
母が買ってくる服を嫌がるようになり、自分で服を選ぶようになった。

そうだ。
小学校の頃、学期初めに配られた教科書に、
母は取って置いたデパートのきれいな包装紙で、
一冊一冊、カバーを作ってくれていた。

けれども、それもいつからか、みんなが使っている、
市販のファンシーなビニール製のカバーにしてしまった。

友だちと持っているような刺繍付のバックを作ってと、
和裁しか出来ない母に頼んだりして困らせたりもした。
母はとても素朴なひまわりが刺繍されたバックを作ってくれたが、
僕の心は、それを受け取った後でやっと痛み始めた。

家のトイレで小便器の前に立ち、夕暮れ時におしっこをする時、
開け放たれた窓の向こう、岩木山に沈む夕日の光を受けながら、
僕はいつも胸が痛くなってしまう。

橙色の光に顔を照らされながら、
母のことを想うことを胸が痛くなってしまう。

貧しい農家に生まれ、成績が良かったにも関わらず、親に進学を許されず、
先生方がとにかく入学試験を受けさせてあげてと頼み込んで、
女学校の入学試験を受けには受けたが、
試験当日に、きれいな服を着た町の娘さんたちを前に、萎縮してしまい、
面接で意味不明でチンプンカンプンな答えを連発した田舎娘。
運動の試験では、やはり体操着というものを着た娘さんたちを前に、
自分の着ている服が恥ずかしくて、何もできなかった母。

僕の新しい教科書に、きれいにたたんで取り置いていた包装紙で、
カバーを付けていく時の気持ちは、どんなだったろうか。

日が沈んで家の中が暗くなると、
低い飯台に上がって、背伸びして電燈から伸びた紐を引く。
部屋の中は優しい光で別世界のように明るくなり、
そろそろ仕事から母が会社から帰ってくる頃だ、
兄たちが部活を終えて学校から帰ってくる頃だ、
そう思いながら、猫と戯れていたっけなぁ。

あ、そうだ。
父はもっと遅くに、酔っ払って帰って来てたなぁ。

僕が寝た後に、折り詰めの寿司とか持って帰ってきていた。
兄たちは、夜食のようにその寿司を食べ、
次の日の朝に、残っていたガリを食べていた僕は、
けっこう長いこと、『ガリ』のことを『寿司』だと思っていた。

今も、夕暮れ時になると、
あの頃の風景が蘇えってきて、
僕は、そこに飛び込みたくなってしまう。

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