展示

去年の夏に横浜美術館から始まった展覧会ツアー。
その後、青森県立美術館を経て、熊本現代美術館での展示が始まった。

おもしろいことに、埋立地で会場付近に大きな建物が無機的に並んでいる横浜美術館では、その大きな建物が並ぶように大きな四角い空間に仕切られて、立体、ビルボード、絵画と展示された。郊外の広い野原に建てられた大きな青森の美術館では、公園を歩くようにアプローチを意識して仕切りを曖昧にし、絵と彫刻を組み合わせた空間を作った。熊本は、街の中心部に美術館があり、大きなアーケード街から周辺を横切る小さな小路が迷路的な面白さをかもしだしていて、そんな風に迷路のような空間設定になっている。

それは、初めから意識的に行われた展示形態ではなく、下見や自分が感じた周辺の空気から自然に導き出された結果だ。

青森での展示は、生涯忘れられないものとなるだろう。その北国は自分が生まれ育ち、自分特有の感性の基本が作られた場所でもあるからだ。故郷を後にして30年以上も経ってはいるのだけれど、幼年期から思春期と多感な時期、当たり前のように毎日を新鮮に生きていたあの18年が、僕が思う僕の感性を作り上げてくれた。そして、その感性を創作する行為に変えてくれたのが、同じような空気の匂いを感じたドイツで暮らした12年だったのだと思う。

さて、白い雪原の中に窓も少なく建っている、巨大な白い青森県立美術館での展示は、その外風景を中に入れ込んだつもりだ。ブロンズ彫刻と絵画が混在する暗い空間を抜け、傾斜のある土壁の通路を歩いて辿り着く、3点の大きな絵がある白い大きな展示室は、外に広がる雪原なのだ。結局のところ、自分にも自然にも内側や外側は無く、メビウスの輪のように、なんとかの壺のように繋がっているものなのだろう。

青森県美では外の雪景色だけではなく、その建築空間や常設の自作品たちも今回の展覧会に味方してくれたと思っている。それは、よくはわからないけれども愛のような実態のないもので、なにかしら現実的であった大都市横浜の展示作業にはなかった感覚だ。そして、熊本での展示作業中は、まだ会わぬ友に見せるような気持ちだった気がする。

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