羽仁進監督のテレビおもしろかった

今日はしとしと雨が降っているので食後のお散歩はしないでテレビを見た。「羽仁進の世界~すべては”教室の子供たち”からはじまった~」

わたしが歌を好きな理由の一つに、歌の世界に正しいも間違ってるもない、というのがある。振った男を恨んで恨んで歌う恨み節。いじけた女の歌。夢みて浮かれに浮かれていてもいいし、過去をひきずっていてもいい。娼婦の歌もある。その気持ちがそこにそのままある、ひたひたと浸ってよい!どんな思いも大切なかけがえのない感情なのだと。

演劇もたとえば誰かを死ねーーー!と思って大暴れしても、そこに遠慮などいらない。むしろしたらおかしい。一般生活、一般社会の中で、敬遠されそうな思いも性格も、目をそむけたくなる気持ちも、よーーーーくみると一つの感情のぐわんぐわんした動きだ。普通の暮らしであれば、そこを抑えたり、ごまかしてやり過ごすことが大人というか正になるが、それをどんどん脱いでいく。ぐわんぐわんを「ほほぅ、こうなっているのか」と善悪やその他の価値観を加えずにただおもしろがって観察していく。そうするとそこは自由だ。人間賛歌だ。

そういう善悪とか価値観を横において、人間の善や悪やいろんな欲やもちろん美しさも、ありのまま奇跡をみるように見れるのが監督という人たちなのかなと思う。

ロサンゼルスで演劇学校に行っていたときは「マイズナーズメソッド」というメソッドが使われていて、ジョンという素晴らしい先生からとてもよい教育を受けることができた。

わたしたちは小さなときから知らず知らずに相手の期待に沿ったり、場の空気を読んだり、「当たり前」に自分を寄せることに慣れすぎていて、ありのままの反応を起こせない。相手の気分を害さないために、ごく巧妙に何かをコーティングしている。わたしはそんなことないな~という人には注意しないといけない。もう当たり前になっていて見えなくなっているだけだから。

それをなんか知らないけど、ベリベリはがしていくのがマイズナーズメソッドだ。痛くてつらいけど、ドストライクにやってきては、なんだか知らないけど毎回号泣した。

教えてもらったのは「リアリティ」ということだ。演技も歌もリアルでなくては心に届かないし、見たいとも思ってもらえない。本当の反応は面白いけど、フェイクの会話はつまらない。エネルギーが入っていないから、関係も深まらない。アートは社交の中にないのだ。

「教室の子供たち」のリアリティー(ドキュメンタリーだからというのもあるけど)はまぶしすぎるくらいで、生き生きしていた。映像も子供も生きていた。なんという表情、空気感。面白いストーリーなどなくても、ずっと見ていられる。練習を何度もする、なんてしないよ~、そこで生まれるものを、と監督は言っていた。JAZZのインプロヴィゼーションみたいと思ったけど、JAZZはその場は即興でも知識や引き出しがたくさんいるからまた違うのかな?

でも本当の瞬間っていつも心がぶるぶる震えるものだ。子供のころ、喧嘩した友達に「さっきはごめんね」って、言葉にしたときは涙も一緒にでてきた。

話がそれたけど、そんな「監督的な目」でもっと人や世の中をおもしろがって、味わい楽しんで、愛して見れたらいいな。ちょっと変なやつがいると毛嫌いして心のシャッター閉める自分を反省。

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