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ありがとう清流 水は地球の生命

【ありがとう清流 水は地球の生命】

2018年2/16、水ジャーナリストの橋本淳司さんの投稿から拝借しました。


<ダムと都市と戦争>

小河内ダム。

 巨大な水瓶が完成したのは1957(昭和32)年、いまから約60年前のことです。それ以前、湖はなく、ここには多摩の人々の暮らしがありました。

 ダム建設計画のはじまりは1926(大正15)年に遡ります。当時、東京府の人口は449万人(「国勢調査」1925年)で、1920年の370万人にから大幅に増加しました。その後も同様のペースで人が増えると予想され、それにともない水需要の増加に対応する必要がありました。

 東京市会は、「将来の大東京実現を予想し、水道事業上の百年の長計を樹てるべき」と考え調査を開始しました。東京市の水道は、江戸時代の玉川上水を受け継ぎ、多摩川を水源として創設されていました。供給量を増やすことになり、当初、利根川、荒川が水源として検討されましたが、結局、同じ多摩川に水源を求めることになり、上流にダムを建設して大貯水池を設け、ダムによる流水の調節によって生み出された水に頼ることになりました。

 1937(昭和7)年、東京市会で小河内ダム築造計画が決定。当初、小河内村は断固反対を表明しました。しかし、「幾百万市民の生命を守り、帝都の御用水のための光栄ある犠牲である」と再三説得され続けました。ダム問題は衝撃的な事件として、新聞、雑誌に何度も取りあげられ、徳富猪一郎、鳩山一郎、大野伴睦など多くの有識者が、村民への援助と同情を寄せました。

 小河内村役場編・発行『湖底のふるさと小河内村報告書』(1938(昭和13)年)には、小河内村長・小澤市平の決断の苦渋がにじみ出ています。

「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである。

 我々の考え方が單に土地や家屋の賣買にあつたのでは、先祖に對して申譯が無い。帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、犠牲奉公の實を全ふするにあつたのである。村民が物の賣買觀にのみ終始するものであつたなら、それは先祖への反逆でありかくては、村民は犬死となるものである。」

 村長は「帝都の御用水の爲め」に断腸の思いで先祖代々の土地を差し出した旨を記していますが、さらに、その背景に「戦争へと進む空気」があったのではないかと思われます。報告書には以下のような記述が続きます。

「若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば、我等と市との紛爭は容易に解決の機運に逹しなかつたらうと思ふ。
 昭和十二年春、東京市が始めて發表した本村の、土地家屋買収價格其の他の問題は、我々日本國民として信ずる一村犠牲の精神と價値と隔たること頗る遠く、到底承服し得られぬ數字であつた。
 本村は、粥を啜つても餓死しても水根澤の死線を守つて、權利の爲めに抗爭し、第二の苦難を敢てしやうとした村民であつたが國内摩擦相剋を避けんとする國民總動員運動の折柄に、我等は此の衝突こそ事變下に許すべからずとして、急轉して解決の方針に向つたのである。是れこそ對市問題解決の動機である。今日圓滿な解決を來し當局と提携事業の進行を見るのは同慶の至りである。」

 小河内ダム築造計画が決定した1932(昭和7)年は満州国成立の年でもあり、1933(昭和8)年には国際連盟脱退、1937(昭和12)年には日中戦争が始まりました。軍人が大規模で招集され、働き盛りの男性が戦地に駆り出され、村や町は「祝出征」の幟旗を立てて総出で送る一方、家庭、工場、農村は働き手を奪われ、国民全員が戦争に巻き込まれていきました。来たるべき対ソ戦、対英米戦にそなえ、国を挙げて戦時体制に突き進むなか、第一次近衛内閣は「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進する」国民精神総動員運動を始めました。

 こうしたこととダム建設容認は密接に結びついていたのです。「国のため」という一言に対し、抗いがたい時代の空気が形成されていたのです。

 小河内村、山梨県丹波村、小菅村の945世帯もが、東京都奥多摩町、青梅市、福生市、昭島市、八王子市、埼玉県豊岡町、山梨県八ケ岳などに移転を余儀なくされました。とりわけ全村水没した小河内村民は大きな負担を強いられました。当時、東海林太郎が歌った『湖底の故郷』には人々が故郷を離れたときの思いを「夕日は赤し、身は悲し、涙は熱くほおぬらす、さらば湖底のわが村よ」と表現され、全国的に愛唱されたといいます。

 工事は1938(昭和13)年に着工されましたが、途中、第二次世界大戦により中断。1948(昭和23)年に再開され、1957(昭和32)年に竣工されました。こうして拡大する都市は水を得ることができましたが、そこに至るまで複雑な経緯があったことがわかります。戦争へと進む時代に「帝都の御用水の爲め」と犠牲の精神で土地を差し出したものの、1948(昭和23)年、補償交渉が再開された時は、敗戦し民主主義の世の中に変わっていました。占領軍による農地改革が進むなか、小河内村でも農地取得要求の結果として、小河内ダム工事再開反対の声があがり、工事をめぐる行政と住民との紛争が再び再燃し、最終的な決着は1956年(昭和31)年になりました。

 移転を余儀なくされた湖底の村の出身者は、東京都民が日の出のような高度経済成長を謳歌するなか、代替地に移住するもなかなか順応できず、窮乏(きゅうぼう)や流転をくりかえしました。作家、石川達三はその様子を「日陰の村」という小説に描いています。

「都市は水に飢えたけもの」という言葉があります。古代から都市は科学技術、経済、芸術の中心であり、文明は都市なくしては存在しなかったでしょう。

 しかし、都市は大量の水を周辺から集め、大量の汚水を吐き出す存在でもあります。水の供給と廃水の除去のために都市が必要とするのは、貯水池、水道橋、運河、排水設備などのインフラです。世界中で都市化が進み、いまや都市住民の数は非都市住民を上回っています。

 そうしたなか巨大なインフラの構築がのぞまれますが、その一方で、都市は周辺から収奪します。水だけではなく、先祖代々から受け継いだ土地、そこに育まれた固有の文化も小河内ダムに沈みました。

 「水と空気はタダ」という人がいますが、こうした犠牲を思うと「どこがタダなのか」と思いました。都市民こそこうした事実を肝に銘じて日常生活を送るべきなのだと思います。

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二枚目の写真の左の方は、三鷹市議の嶋崎英治さん。
自分の師匠のような人です。

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