映像化との向き合い方が分からない

最近、お気に入りの媒体がポッポッと映像化されることが続いていて、辛いというか悲しいというか、それって怖いな、と感じる。

例えば、本を読んでいる時。
人物や場面を想像をして楽しんだり、作者の意図を読み取ったりするのが醍醐味であると思っているので、思想は本を読んだ人の数だけあると思っている。
“みんな違ってみんないい”状態
その思想や感想は、各々の心にしまっておいていいし、外に出してみて楽しんでみるのもいいし、他の人と共有して自分の思想の癖を感じて楽しんでみるのもいいし。
映像化すると、イメージというのがこびりつく。
そのイメージが一般的な正解なのではないかと思ってしまう。
その本を読んで感じた、言語化できないほどの食感が、イメージがこびりつくことで無かったことになるのではないか、ということが怖い。
映像でのイメージこそが自分の思考の癖だと思い込んでしまうのではないか、ということが怖い。
自分は引っ張られやすいという性格が一番にあるから、そういうことを心配してしまう。
映像化されやすいような、少し変わっていて、大衆にも受けやすいものの媒体に好んで触れている自分がいるのだろうか。
ということは、
自分の感覚は一般的であるということなのだろうか。
最初から自分は対象者ど真ん中の感覚を持ってるのに気が付かず、自分だけの感覚だと思い込んでいるのかも知れない。

オールナイトニッポン55時間スペシャルを聴いた。
自分は3年前からオールナイトニッポンを聴き始めたので、懐かしさに悶えることはなかった。初めて聴く番組ばかりだった。
ただ、名前だけは知っている方々から発せられる聲は自分を納得させ、「あの時代のあの時間に、このラジオを聴いていたら自分の感性はどんなに磨かれていただろうか。」と存在しない自分をうらやましく思った。
とても面白かった。
興味を持ったラジオDJのことをもっと知りたいと思った。
ラジオDJの、他の媒体にも触れようと思った。
当時のラジオを聴いていた側からすると、当時のそっくりそのままであったか、と言われればそれは違うかもしれない。
「自分は、あのコーナーが好きだったのに。」
「あの人のあの感じが好きだったのに、何十年たったら違う感じだったな。」
などと、落胆されたかもしれない。
何も知らない自分は、とても楽しんだ。
当時の雰囲気を無理矢理感じ取り、思いを馳せたりもした。
そのことが、映像化された媒体でも起こるかもしれないのだ。
ラジオを聴かなければ、知ろうとすることはなかった。
DJと自分を繋ぐ“ラジオ”がなければ、他の媒体に触れたいと思うことはなかった。
そのラジオDJのことが嫌いで避けていたわけではなく、その存在を知らなかったから、触れようとしなかった。

私がいくら、
自分が思うその本の主人公は、芸能人のその人ではなく、もっと細くて頼りない雰囲気の人で、前のドラマで共演していたその2人では、どうしても関係性を引っ張ってしまうから本の内容からしてその関係性は好ましくないな。と思ったり、
アニメと声色が違うのは百歩譲るとして、声量が違うと自分の好きな雰囲気と違って見えてくるから耐えられないな。と思ったり、
したとて!!!!!
ドラマを見て好きになって、基の書籍を読む側の私も絶対に存在するんだ。絶対に。

クジラに喰われる小さなプランクトンと同じ、私は影響力の全くない1消費者である。
書籍化のクジラ、映画化のクジラ。
ドラマ化、アニメ化、リメイク版のクジラ。
クジラを何体も生み出して、定期的にプランクトンを喰わすことで、そのクジラは生きていける。
本を映像化することで、その書籍は輝き続ける。
今のラジオと昔のラジオ、書籍と映像、を繋ぐことでエンタメは、盛り上がり続ける。
最初から、本と映像の関係はそういうもので、腹を立てる自分はお門違いなのかもしれません。
エンタメとは、そういう概念なのでしょうか。

そうだとしても、
たりないふたりは、たりないふたりでしか、ありえないんだよな。


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