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『彼女を笑う人がいても』感想

舞台『彼女を笑う人がいても』感想
(長い)
(ネタバレあり)



イデオロギーが禁忌と冷笑の対象になったのはいつなんだろう

漠然と思っていた疑問
他国では今この瞬間にも様々なデモが繰り広げられ戦っているというのに
どんなに辛くてもバカにされても誰も戦おうとしないこの国
諦めならまだしも
それをすること自体
しようとする人たちを
冷笑する空気はなんなんだろう


(イデオロギーの定義は広過ぎるけどここでは主に政治的な観念・思想形態を指す)



こうなったのきっかけの一つは
7社共同宣言なんじゃないか

知らなかったこの恐ろしい宣言
社会学専攻なのに恥ずかしい


冒頭でこの宣言が読み上げられた時
国家が丸腰の学生に対して暴力行為をしたことを非難する宣言かと思ったんだけど

聞くうちに真逆だと気付いて
恐怖に胸が冷たくなって
何これ、創作だよね?そう思いたい!

でも直感でこれは創作じゃないと分かったんだよね


今の日本に繋がってるもの、完全に

時は途切れないから60年安保とどこかで繋がっているはずだと思ってたけど

全然繋がってた普通に




言葉が力を失ったのは今の話ではなかった


正論を言っている吾郎が論破されているように見えるのが恐ろしくて震えた


それでもまだ論争できるだけマシだけど
今は論争すら出来ない
報道だけでなく堂々と言葉が死んでいる
エラい人の吐く言葉は言葉に対する冒涜としか思えないほど空疎で無意味で心がない

そしてそれを良しとする空気

この国で言葉の役割が残っているとしたら
それはその人自身を表している ということ



1960年は言論で訴えても聞いてもらえないどころか武装した警察を向けられた

現代は言論で訴えても半笑いの空疎な言葉と冷笑の雰囲気が返ってくる
国中から





声なき声 笑
お前が集めているのは声ある声だ…
この言葉が突き刺さった
国民の総意にするには全員の声を拾わなければいけないなど詭弁でしかないのに

記者はもちろん
活動家の心を殺すひとこと

何万人集まっても一部と言われればそうだから





では国会の片隅で強行採決したのは国民の総意なのか?


その反論は権力によって押し潰される
武装した警察を使って
あるいは報道機関を使って
昔も今もおそらく
変わらない構図


宣言を出さねば何百人もの学生が死ぬ‼️

また詭弁

(自己欺瞞…主筆 分かってて言ってるよね)



報道を使い 使わせ 何百万人も戦争で死なせたのは誰なんだよ






そんな世の中でまともに言葉を使って論争する気になるだろうか

学生の活動を一方的な暴力行為と決めつけ、何をされても暴力はイケマセン、議会主義を守ろうと、誰にも反論できないことを声高らかに宣言されたら

それも報道機関7社に…
本当に信じられない



前提が間違っているのに‼️
事実が明らかになっていないのに‼️
それを追究するのがジャーナリズムのはずなのに
泣けてくるよ






この時に現状の根っこがあった気がする

権力に立ち向かってもムダ、というプロパガンダを巧みにこの事件を利用して浸透させた結果(全て筋書き通りだった気がしてならない もちろん樺美智子さんの死も)

おとなしくお上に歯向かわず自己責任で生きる今の日本人が生まれたのかもしれない

そう単純ではないかもしれないけど

岸内閣退陣後、池田勇人内閣は所得倍増計画を掲げ人心を一新し
日本は右肩上がりの時代へ突っ走ったから
歯向かう必要も
考えることもなかったんだろうけど







主筆も吾郎のような若者だった気がする


でもその、葛藤を乗り越えて魂を売って大人になるという人生の考え方が嫌だ 嫌いだ

この歳になってもそうだ

なぜ葛藤を抱えたまま生きてはいけないのか

もしくは抱えていても押し潰して生きねばならぬのか



難しいことを考えず周りに巻かれ流され
声を上げず茹でガエルになっているのも気付かず
もしくは気付いても項垂れて『自己責任ですから』と下を向いている


それが今の日本人



それでも権力に対し
『暴力』で戦うのは悪であり
『言葉』で戦ってもムダである


それを徹底的に叩き込まれた
この事件で


そして
『何をされても』穏やかに仲良く過ごすことが日本における最上の価値となり
対立を生みかねない『自分の意見を言う』ことまでやるべきではない、冷笑の対象になってしまった



それで良い道に進んでいるか
もう答えは出ている気がするけど






自分の意見を言うということは
日本では極めて困難


誰かが声を上げると
スルーしたり
深い意味はないと矮小化したりして
問題に向き合おうとしない
真意を捉えようとしない




考えることを放棄したくない

今のこの国は
考えることすら放棄した人が溢れてる気がするのは
穿った考えかな…




1969年生まれの私は無意識に
『あの時代』は『特殊』で
『野蛮』で 『今は違う』と思っていた


そうではない
あの時代はまだ今より『健全』で『普通』だったのだ
声を上げることが出来る土壌があったのだから


対話どころか
向かい合ってケンカも出来ない時代

時代のせいにしてはいけないけれど

渦中にいると見えないものもある






この舞台は
少なくとも私にとって
それを明確に意識に立ち上がらせてくれるものだった




間違いなく私たちに途切れず続いている
1960年という過去を
樺美智子さんの思いから最もかけ離れているであろう現在を
考え続けたいと思います







舞台に関わった皆様、本当にありがとうございました。
拙い感想でスミマセン💦
これからも学んでいきたいと思います。

瀬戸山さんがパンフレットでおっしゃっていたように、舞台芸術は「こんな時代に『生きた言葉』を次世代まで運ぶ船のような役割』を持つことを、また『生きた言葉』は無くならないことを信じて。

演者さんたちの『生きた言葉』は本当に胸に響きました。

これからも考え続けます
山中さんのように
怖くて行動はできないかもしれないけれど。



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