ぼっちじゃない飯。「マーボー豆腐」

コロナ禍で一人暮らしをしていると、圧倒的に、ひとりでごはんを食べることが多い。俗に、「ぼっち飯」と呼ばれるやつ。

部屋に自分の咀嚼音だけ響いているのも悲しいのでテレビをつけるけれど、テレビをみながらひとりでもしゃもしゃ食べるごはんはやっぱり味気なく感じる。

お店でおひとり様ごはんをしているときも、そう。食べている最中になんだか手持ち無沙汰になるときがある。「おいしい~!」とかリアクションするのも恥ずかしいし、かといってスマホをいじりながら食べるのもなあ。

食いしん坊のわたしは、ひとりでも、いかにおいしくたのしくごはんを食べれるかを考えた。


考えて、うまれたのが、、、


”思ひでと一緒に食べる”


どういうことかというと、ひとりで食べているその食事を、だれかと食べたときの記憶や、その食べ物にまつわる出来事を思い出しながら、味わっていただく、という食べ方をするということ。

余計にさみしくならない?というご指摘もいただいたが、そんなことはないはず。一度やってみてほしい。今まで以上にごはんを味わって、豊かな気持ちでいただくことができるのだ。


そして、ちょっとここで、わたしのそれを綴ってみたくなった。

記念すべき第一回、今日のぼっちじゃないよ飯は、「マーボー豆腐」。

今晩は、なんだか無性にマーボー豆腐が食べたくなり、dancyuに掲載されていた本格レシピでマーボー豆腐をこさえた。さすがdancyu、はずれないおいしさに仕上がった。はふはふといただきながら、マーボー豆腐の思ひでを探す。

一番真っ先に思い浮かんだマーボー豆腐は、前職の老人ホームの食事で作っていたマーボー豆腐。

マーボー豆腐は高齢者にも子どもにも食べやすい、超万能メニューである。やわらかい豆腐とひき肉、片栗粉のとろみで構成されているため、咀嚼・嚥下にやさしい。そのうえたんぱく豊富で食欲のでる味。

高齢者も子どもも食べられるように、辛さはほぼなしでやさしく、でもしっかりと味噌やテンメンジャンでコクを出す。

大量に作るのに適していて簡単という優秀さも兼ね備えていたため、たくさん助けられお世話になったメニューの一つなのだ。

当時一緒に働いていた方々や、厨房の空気を思い出す。



はたまた、実家のマーボー豆腐。こちらはまた全然違う思ひで。

野菜を食べてほしいという母の思いのこもったマーボー豆腐は、しいたけやニンジン、ニラなど、細かく刻まれた野菜がたくさん入っており、辛味をいれておらず赤みがなかった。

小さいころはマーボー豆腐といえばこういうものだと思っておいしく食べていたけれど、いつからか、どうやらもっとシンプルで赤っぽい色なんだと気づき、母に、「これはマーボー豆腐じゃない!」とか言い出した気がする。

今は、あれはあれで美味しかったなあ、と思える。

あ、そういえばお父さんのだけ辛そうな色のやつ作ってたな。ほっこり。



と、こんなふうにして、思ひ出にふけりながらマーボー豆腐をおいしく完食。食べ物にまつわる記憶って意外とたくさん残っていて、食べなれたものであれば結構するすると掘り起こされてくる。

テレビをみたり、スマホをいじりながらも悪くはないかもしれないが、目の前のごはんとじっくり向き合いながら”いただく”のも、なかなか乙なのではないか。そしてそれはぼっち飯じゃなくて、ごはんが繋いでくれたひとやものと、その時間を共有できている気がする。そして食べた後の満足感が全然違うのだ。


思ひでだけでなく、目の前のごはんがどうやってここまで来たかを想像するのも、なかなか楽しいのでおすすめ。


はあ。世知辛い世の中だけれど、今日もごはんがおいしい。しあわせ。

ごちそうさまでした!

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