自分の返答に驚いた

 初めてお会いする年上の女性俳優と、ハラスメントについてゆっくりお話する機会があった。主な議題は「ハラスメント及び性暴力被害者への二次加害に対して業界人としてできること」だった。有意義なことを色々話したけれど一つ印象に残ったトピックについて書き残す。

 「昭和」の俳優たちはどうしたらいいと思いますか、なんて聞かれた。ハラスメントが当たり前にたくさん存在して、それを受け入れたり加担したりしてきた人たちがどうしたらいいか、という話だった、と思う。
 たぶん相手によって私の返答は変わる。業界から消えろ、かもしれない。でもその時話した方がこんな返答をすべき相手だったら、そもそも話す機会が設けられなかっただろう。その方は責任の重みを強く感じているように見えたし、なにより女性で、私は男性だった。年齢の差があるとはいえ、男性特権を享受して生きている私が、女性に対して性加害についてわかったような発言するのも変な話だ。
 だから「自分の受けた被害を正しく認識してほしい」という風に答えた。「加害じゃなくて?」と聞かれた。たしかに加害も認識してほしい。ハラスメント加害者がむしろ被害者意識を持って暴力を働くパターンを多く知っているので危うい返答ではあった。自分でもこんな返答をしたことに驚いたくらい危うい返答だった。でも、そのときの僕は、まず被害だと思った。
 昭和の大ハラスメント時代を生き残っていまも活動しているサバイバーたちは、いわゆる「強者の論理」をつよくはたらかせている可能性がある。被害を認めることで、自分が「その程度」のことで傷ついてしまう弱く劣った存在だと認めることに等しいと思ってしまう。同様の被害を受けた人に対してもそれを被害だと認めづらかったり、軽く扱ってしまったりする。自分の被害を正しく認識できれば、他人に対しても行動しやすくなるんじゃないか、なんて思った。

 ただ今考えれば、不十分あるいは不正確な回答だった。
 私は他人の傷の扱いについて踏み込むつもりはない。踏み込むべきでもない。その人の選択に任せるべきだ。しかし、(色々すっとばすが)だとすると傷に触れないことを選んだ人は何も振り返るべきでないとも結論できる。だとしたら「被害を正しく認識する」の回答はむしろ正しい認識を妨げかねない。それでいいのか。いやよくない。
 だから焦点を変えよう。加害者の行為がどのように間違っていたのか、であれば問題にできる。自分が傷ついたかどうかはさておき、あのとき被害を受けたかも知れないあの出来事について、あの加害的行為はどのように間違っていたのか。あるいは加害と被害の対立はこの際捨ててしまってもよい。あのとき、あの時代、あの間違った行為は、行為を生む環境はどのように生まれたのか。何がそれを可能にしたのか。あるいは、何があればその間違いを不可能とできたのか。

 私は昭和の演劇の現場を生きていないから肌感覚ではわからない。でもまったく他人事ではない。問題のある平成・令和の現場を、私は生きてきているのだ。

 もう一度正しく答えてみる。
 昭和の俳優、および私に必要なのは、
 「加害・被害のいずれでもよいので、間違いがあったこと認める」

 ……いや、当たり障りないな。確かに正しいのだが。
 人によって加害を認めるべき人と、被害を認めるべき人がいるので、今後の返答はどちらかに絞ろう、よくお話を聞いた上で、留保付きで。

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