最初に「たとえば」とだけ書いてみる

 たとえば。

 間は使ってもいいが、なるべく平坦に抑揚をつけない。ほぼ機械音声だと思ってしゃべってみる。言葉の意味や背景を伝えようとする必要もなく、ただ音として発声してみる。ふつう、これは苦しい。決まった喋り方は、身体にほとんど同じ緊張状態を強いるので負荷が大きい。それに緊張が続いて変化の起こらない身体は見ていてワクワクしない。だから俳優トレーニングにおいては、そうでない発声・発語を目指すのが基本となっている、と思う。
 あえてやってみるのも面白いだろうか。自分で自覚的にやったことは一回だけ、過去出演した舞台のあるシーンの限られたブロックでだけだ。けれど、もしかしたらほぼ全編そのようなつくり方をしてみてもいいかもしれない。無自覚的にこれをやってつまらなくなってる芝居もたくさんあるからこわいけどね。目を閉じてセリフの内容だけ聞いてたほうがずっといい芝居、みたいなのがそれだ。でも、この方法でむしろ視覚的な面白みをつくれるような気がずっとしている……逆説的な面白さでなく、これ自体が面白いと言えるような。言葉と肉体に果てしなく距離がある状態、それが人間社会でどのような問題を引き起こしているのか、みんな知っているはずだからきっと何かは描ける。
 まあ、そしたら演劇じゃなくていいのかな。

 でも考える。これぞ演劇といいたくなる面白さを見つけたら、本当にそうなのか、最低でも頭の片隅においておかないと、演劇原理主義者になりかねない。

 自分は何の例としてこの文章を書いたのだろう?

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