ぐったり

おもしろいという言葉を分解するなら、ひとつには「信じるに値する」があるといってよいと思う。信じるだけではよく意味が取れないならば「フィクションを信じる」でもいい。この場合のフィクションとは人間の周囲を常に取り巻いているような類のフィクションだ。観劇に行く際、私はこの作品が何を信じているのか、信じようとしているのかを観に行っているものだと思っている。
作品に際してあらわれるフィクションが信じるに値するかどうか、それは信じてみないことにはわからない。信じられなくとも、信じようとしなければなるまい。そうでなければ演劇をやる意味も、観る意味もなくなってしまう。
今日観た演劇は、実に、実に空虚な時間だった……。言語空間内で処理できる情報だけをコントロールできる程度に並べ立てて、まるでフィクションを信じること自体をバカにするような気さえ感じた。一部俳優の立ち振舞はすごく好きだったし、そんな俳優同士でつくられるシーンだけ信じられたりした。笑える瞬間があったりもした。でも、観たあとに何も信じられなくなってしまった。つらかった。だったら演劇なんてなくていいと本気で思う。信じることも、信じることを信じることもできないのであれば、やれることなんてない。なにもしてはならない。なにかをするならば、信じていてくれ。

あとは、なんだろうな、いつものことだけれど、一見平和な演劇界隈の情報が流れてきて……ぐったり、自分だけなのか。あの団体、あのひと、たち、のことを信じられないのは。自分だけがおかしいのか。関わりを断つということくらいしかやる元気がない。もう。

追記
最前列で演劇見るのやめたほうがいいかもしれない
今日みたいな観劇体験の十分条件でも必要条件でもないけど、正の相関はある気がする

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?