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昭和の家電

 Z世代に昭和の家電を見せて、何に使用されるものであるか、いい当てる番組で盛り上がっていた。LPレコードをどのように操作して音を出すのが分からず、昭和育ちの人間はハラハラ、ドキドキ、レコードを無造作に素手でもってベタベタ触るのを見ていて苛ついていた。知らないのだからしょうがないのにね。
 一方では、「博士ちゃん」(番組)などでZ世代だろうに、昭和の歌手や家電やら博識でその理屈にも脱帽する。
 世の中は、変わっていく。いま昭和や平成を笑っている君たちもいずれは同じ運命にある。良し悪しではなく人間の道程であり、そういう私も、この年齢になってようやく知ったことであり、偉そうなことは言えない。やはり「その年齢にならないとわからないことがある」ことを知った。
 
ある研修で
 ある研修で男性陣に女性について聞いてみたことがある。
 コロコロ変わる、怖い、予想がつかない、手に負えない、一貫性がない、その場のご都合主義・・・。聞いていて「それって自然と同じじゃない」と思った。
 昔は、地震、雷、火事、親父。なんて言っていたが、様変わりしたもんである。
 
賞味期限と未来 内田樹
 現代人は「未来は今よりよくなるはずだ」という根拠のない進歩史観に骨がらみになっています。
 だから、未来が今よりよくなりそうもないとなると、世界をとらえる枠組みそのものが解体して、判断不能になってしまう。
 逆に、世の中はどんどん悪くなっているというフェミニストやエコロジストに多い反進歩思想も発想の根は同じです。
 彼らもまた歴史は「鉄の法則性」が貫いていて、直線的に推移しているはずだから、その法則さえ発見したら全てが予見可能だと信じている。
こうした考え方は百五十年にわたってマルクス主義によって涵養されたものです。「後世の歴史が私の主張の正しかったことを証明するだろう」ということばづかいをする人は、極右であれ保守であれ、それと気づかずにマルクス的な歴史主義の信仰告白をしているんです。
 冷戦後、マルクス主義が政治思想として力を失った後も、「歴史の審級」が最後に判断を下すという歴史の審判力に対する信仰は無傷のまま残っています。
 なぜ「時間的に後から来たもの」が「前からあったもの」より「よりよきもの」であるとそれほど素朴に信じることができるのか。改まって問われたら、答えられないのに、依然として「…はもう古い」という言い方に審判力があると人々は信じています。
 「グランドセオリーの時代は終わった」とか言ってる人間は「…の時代が終わった」という言い方そのものが「歴史主義というグランドセオリー」の内部でしか通用しない言説であることに気づいていない。
 こんなふうに歴史主義の亡霊がいまだに徘徊しているのは、マルクス主義が構築してきた世界観・人間観のうち、どれが汎用性の高い知的資産であり、どれが賞味期限の切れた理説であるのかをていねいに検証しないまま、丸ごと「歴史のゴミ箱」に捨ててしまったためです。
 どんな社会理論にも「賞味期限」があります。使い勝手が悪くなるときがくる。それはそういうものだから、仕方がないんです。
 賞味期限がきたら「長いことありがとうございました」と手を合わせて拝んで、きちんと片づければいいんです。
 それを「もう古い」と言って、これまで、その理論からどれほどの恩恵をこうむってきたかを忘れて、まるで生ゴミのように、汚らしいものでも触れるように廃棄しようとするから「思想が祟る」んです。
「 思想が祟る」ということはあります。現に祟っているじゃないですか。
だから、どんなイデオロギーであれ、宗教であれ、物語であれ、もっと敬意をもって接すべきだと私はつねづね申し上げているんです。
 
 というような内容のものである。少し書き加えたいことがあるので、それを以下に付け加えておく。
 
 「新しい理論」に飛びついて、それがすべての説明してくれるマスターキーのような道具だと思い込んでいる人は、実は未来の「未知性」を直視できないだけである。
 未来が怖いのである。
 だから、未来を現在に繰り込んでしまおうとする。
 そんなことできるはずないのに。
 説明できないことが起きることを「怖い」と感じる知性の構造そのものがここでは問題になっている。
 「説明できないこと」がたえず私たちを不意打ちにする。
 そういうものなんだから、驚くほどのことではない。
 不意打ちにされたときに、慌てて「こんなことはありえない」と言って逃げ出すのも、「これこそありうべき決定的事況である」として「歴史の審判力」に拝跪するのも、どちらも「未来を怖がっている」点については変らない。
 「恐れず」は人倫の基本である。生存戦略の基本である。
 むかしからずっと基本だったし、これからも基本である。
 
内田樹研究室 ブログより
 もちろん、たいした説明はできなかった。
 でも、こういう試みは私たちの世代が担うしかないと思う。
 もっと若い世代がいずれすぱっとフェミニズムを一刀両断にしてしまうだろうけれど、私たちはそれにはおいそれと同調するわけにはゆかない。
 だって、フェミニストたちはかつてはほんとうに輝くように魅力的な存在だったんだから。
 そのことをきちんと抑えておいて、その上で、「どうして?」という問いは発せられねばならない。
 若い世代にとって、フェミニズムはマルクス主義と同じようにもう「20世紀の遺物」とみなされ始めている。
 でも、どちらのイズムも、そういうふうにあっさり括って済ませることが私たちの世代にはできない。
 そこにあまりに多くの夢を託したから。
 少年の夢を託したものによって深く傷つけられたという経験の意味は、その経験をしたものが語る他はない。
 

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