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沢木耕太郎インタビュー つづき

 沢木耕太郎インタビューの続きである。
 唐突だが、インタビューのあいだ静かな大河の流れのような「時間」が流れていた。時間は空間化しないと知ることができない。25年もの歳月をかけ書き上げたという一冊、おそらくそれだけの時間を積み重ねなければ書き上げられなかった一冊であり作品そのもの構造でもある。時間で出来上がった一冊、そこには作者や実在の人たちの時間が折り重なるように積層され混然一体となっているのだろう。
 
 東西冷戦の終結以降、資本主義が勝利したというような言説が流れていた。その時、感じたのは大袈裟に言えば人々が築き上げてきた知性が瓦解していく風景であった。それ以降、先進国も発展途上局も、資本主義も共産主義もポストモダニズムという思潮一色に染まった世界が登場してきた。偏見・差別・フェイク・・・年配者には、まるで詐欺的世界にしか見えず、危機感もなく病に感染していくように思え現在も止むことがない。建築家という立場からは、結構ポストモダニズムの思潮は、建築界を席捲した。印象的には。思潮よりそこに胚胎している冷笑的で虚無的なところが、私にとっては違和感が感じられいつまでも嫌悪に近いものが残った。
 
 全てが相対的で冷笑的、虚無的な世界を人々は、どのように暮らしていくのだろう。誰もが暗黙の了解している現在の時間の観念について問うことだろうと思っている。それは現在の時間の観念が、冷笑的で虚無的な世界を生み出している可能性があるからであり、そもそも時間の観念と書いたが、もしかしたらそこには時間を喪失した空間だけの世界が広がっているかもしれない。「いま、ここ」しかなく、貧相でみすぼらしく世界を生きていることになる。
 「天路の旅人」に内在しているのは、現在の時間の観念ではない「円環する時間」であるように思われる。なぜなのかその時間は、懐かしさや失われたもの・せつなさ・健気さ・愛おしさを思い起させる。
淡々と繰り返される平凡な日常の時間ではあるが、なぜか満たされているような思いが感じられる。
 現在の世界とは違う、もしかしてありえたかもしれないもうひとつの世界である。
 
近代と職能
 医師や法律家・警察官・建築家・音楽家・・・近代になって誕生した職業が数えると結構あるのに気が付く。私たちはそのあとに誕生したので、それらの職業はいつ頃からかは定かではないが先験的に存在していたものと思い込んでいる。近代になって誕生した職業もあれば、消えていった職業もある。第一次産業から第二次産業になり現在は高度情報化あたりを通過したかもしれない。時代の推移により職業も移ろっていく。
 大学を卒業し建築設計事務所に勤めだしたころ根拠はないが、建築家の理想は、建築家が不要になることであるそんな思いをもっていた。近代社会になり誕生した職業である以上、社会の変遷をたどれば、建築家という職業もいつかは必要としない時が来るはずであり、どうも社会の理想と建築家の理想が私にとって(今思えば)パラレルな関係にあったようである。
 
 ヒーローやカリスマを待ち望む社会よりは、市民の代表(誰でも)が運営できる社会のほうが望ましいように思われる。おそらく市民的成熟が醸成された時にようやくそんな社会が到来するであろう。遠く長い時間を要するだろうと思われるが、それがいつか成し遂げられる理想であることにはいまでも変わりはない。
 
ポストモダニズムの前夜
 それこそ18歳くらいのころ、吉本隆明の本で(出所は忘れた)警察は警察の、医者は医者の、科学者は科学者の目で人間を見ておりバイアスがかかっているということを知った。
 ポストモモダニズムの前夜だったかもしれない。
 
1970年代、吉本隆明
 言論を否定するという言論によって、どんな宣伝的な言論よりも強力にアジっているのであり、しかも、それが言論であることを隠蔽することに成功している。
 もっとも性悪なイデオローグは、「一兵卒として闘う」と書くような文学者のはずである。
 まるで自らは言論ではないかのように語る言論のイデオロギー的機能である。
 “小林秀雄的なもの”が無傷のまま変形されて生きのびる。
 
吉本隆明とマルクス・ガブリエル
 「欲望の資本主義」(NHK)マルクス・ガブリエル(哲学者)が語るのを聞きながら、吉本隆明の「関係の絶対性」という言葉を思い出した。哲学も文学も専門ではないが、マルクス・ガブリエルは、ポストモダニズムの相対的な思潮を、吉本隆明は「人間の自由や意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない」ということを語りながら、なお唯一無二性やかけがいという私たちの「存在」そのものに触れようとしている。
 
関係の絶対性 内田樹
 「関係の絶対性」)懐かしい吉本隆明のワーディングだ。武道におけるきわめて汎用性の高い知見である。
 「関係」とは「相対性」のことである。
 「相対性の絶対性」
 なるほど。ほんとにそうだよな。
 そんなこと急に言われてもみなさんは困るでしょうけど。
 「ほんとにそうだよな」としか言いようがないのである。ある。おそらくそうなのだろうと思う。
 
なぜ、世界は存在しないのか マルクス・ガブリエル
 それゆえ「世界像」を本質的に理解するならば、これが意味しているのは、世界についての像ではなく、およそ像として捉えられた世界のことである。存在するものは総じて、今やこう捉えられる―およそ存在するものは、表象=制作する人間によって定立されるかぎりで存在している、と。 ハイデガー
 
 わたしたちには、世界を外から眺めることができませんし、したがって、わたしたちの作った世界像が妥当なものかどうかを問うこともできません。
 
 あなたが運命を見いだせるか否かが問題です。
 問題はあなたが運命をかんじているか否かです。
 あなたの人生で深く意味あること出来事により深い意味があると思えた時、あなたが自分自身に近づいているのです。
 運命は必然を意味しません。それ自体がすでに神秘なのです。
 運命とは自由を意味します。
 自分が自由になったとき初めて運命を見だせます。
 
知性と信仰
 「知は絶対的でも相対的でもない」
 
 芝居というのは、役者が真剣に演じないと「芝居」として成立しません。とくに喜劇がそうです。・・・「お笑い」を演じることの空疎さを知りながら、「お笑い」を通じて何か「善きもの」を生みだし、それを人々と共有しうることを直感している人は、すぐれた喜劇役者です。
 
 知性もまた「お笑い」と同じような構造を持っているように私には思われます。どのような世界観であれ、人間観であれ、それはつねに限界をもっています。どのように包括的なヴィジョンであっても、「宇宙の果て」とか「時の終わり」とか「死」とか「欲望」とかいう根源的な事態を「対象的なもの」として、鳥瞰的な視座から経験することはできません。私たちはそのような根源的経験を「内側で生きる」ほかないからです。いわば、私たちははじめから「舞台に上」に置かれているわけです。「舞台の外」に何があるのか私たちは知りません。・・・自分に向けて振られた台詞に、即興で答えてゆくこと、それがさしあたりの私たちの仕事です。そのとき、「舞台こそが世界のすべてである」と信じ込んで、舞台の外(街路や都市や大陸)が存在する可能性について吟味しない人間が「絶対知」を信じる人々であり、舞台の上で、「こんなのはしょせんサル芝居じゃねえか」と言って、ふてくされて「素」になってしまうのが「知の相対性」論者たちであるように私には思えます。ちゃんとした大人であれば、それが芝居であることを知りつつ、芝居を通じて、(この書き割りのなかで、この配役で、この時間内に)どのような「善きこと」を生み出すことができるか、という限定的な課題に集中できるはずです。・・・知というのは、「自省的な機能」の別名である・・・すぐれた喜劇役者は「芝居の役の人物」と「役者という職能者」と「素顔の彼自身」の少なくとも三つを同時に演じ分けます。
 
こんな日本でよかったね 構造主義的日本論
 時間的に後から来たものがすべてを支配する、というのは歴史主義的な考え方です。
 歴史主義という以上、それは時間という要素を最優先に配慮する思想のようですけれど、実はここには時間という要素はほとんど関与しておりません。というのも、これまでのすべての時間は現在のうちに萌芽的に含まれており、過去の意味は現在において開示されるというのが本当なら、現在以外のすべての時間はもとより考慮に値しないからです。
 ヨーロッパの人々がアジアやアフリカを植民地化して、現地の人たちを虐殺したり、奴隷化することができたのは、「未開人」たちは自分たちと同じ進化の歴程の「前の段階」にいると思ったからです。自分たち「文明人」は「未開人」の段階をすでに通過して、「未開人」の持つすべての価値すべての意味をかつて一度持ったことがあり、それを乗り越えて現在の文明状態に達したという「物語」を信じ切っていたからこそ、「文明人」たちはあれほど「かつての自分」に対して残忍でありえたのです。
 構造主義はこの歴史主義の野蛮に対するつよい嫌悪に動機づけられて生まれた思想です
 
 構造主義は時問の広がりと深みを重んじます。
私とは違う時間の中に生きている人に世界はどのように見えているのか私にはよくわからないという謙抑的な知性が構造主義者を特徴づけています。
ですから、彼らはあふれるような好奇心と敬意を以て「よくわからないもの」に接近します。
 構造主義者が最初に出会う「よくわからないもの」は自分自身です。
 私はどうしてこんなふうに考え、こんなふうに感じ、こんなふうの言葉遣いをするようになったのか。私の知性と感性はどんなふうに構造化され、どんなふうに機能しているのか。それを私はうまく言うことができない。
 この無能の自覚が構造主義的知性の最初の足場です。(内田樹)
 
存在していることの根拠を与えること
 いちばん根源的な交換行為は「キヤッチボール」です。
 こちらが投げる、あちらが受け取る。あちらが投げる、こちらが受け取る。
 それだけ。
 別に何も生み出していません。
 でも、ボールを受け取るときには、グローブが「ぱしん」と小気昧のよい音を立てて、掌に持ち重りのするボールが届けられる。それを投げ返すと、今度はむこうのグローブが「ぱしん」と音を立てる。
 何も価値あるものを生み出しているわけじゃないけど、なんとなく幸せな気持ちになる。それはボールが送られるごとに、「あなたがいてくれて、よかった」という祝福の言葉がそれに添えて送られてくるからです。
 飛んでくるボールは「あなたが存在していることを私は認知する。あなたが存在していることから私は今喜びを得ている。だから、あなたがこれからも存在し続けることを私は祈っている」という強い遂行的なメッセージを携えています。
 人間というのは、そういう祝福の言葉を定期的に服用していないと生きていけない生き物です。生理的に生きていけないということはないけれど、生きている気がしない。
 
「生きることの愉しさ」について
 「すべては消滅し、私たちは必ず死ぬ」という事実そのものが実は人間の幸福を基礎づけているのである。
 
 私たちが欲望するものは、それを安定的持続的に確保することが不可能なものに限られる。
 
 「生命」をいとおしむのは、それがこの瞬間にも一秒一秒失われていることを私たちが熟知しているからである。
 
 「それが失われた瞬間に立ち会っている未来の自分」が経験する喪失の予感なのである。
 
 私たちの日々の散文的な、繰り返しの多い生活に厚みと奥行きを与えているのは、今生きている生活そのもののリアリティではない。そではなくて、「私の人生」という物語を読み終えた私である。ジャック・ラカンはこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」
 
『ストーリーが世界を滅ぼす』書評
 『ストーリーが世界を滅ぼす』(ジョナサン・ゴットシャル、月谷真紀訳、東洋経済新報社、2022年)の書評を頼まれて、東洋経済オンラインに寄稿した。
 
「ポスト真実の時代の指南書」
  この世界には単一の、客観的な現実などというものはもう存在しない。存在するのはさまざまな視座から眺められ、さまざまなフレームで切り取られ、さまざまなコンテクスト上に配列された、似ても似つかぬ事実たちである。
 alternative factsを日本のメディアは「もう一つの事実」と訳したけれど、よく見るとわかるとおりコンウェイはこのとき複数形を使っている。「もう一つ」どころじゃないということである。
 
 このようなシニカルな態度は「ポストモダニズムの頽落した形態」だと診断する人たちがいる。傾聴に値する知見だと思う。
 ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長くは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑に止まることに疲れて、やがて「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。
 彼らはこういうふうに推論した。
「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている(これは正しい)。人間の知覚から独立して存在する客観的実在は存在しない(これは言い過ぎ)。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である(これは誤り)。」
 こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。
 ロシアのウクライナ侵攻は「ウクライナの指導部はナチだ」という「ロシアのナラティブ」の帰結であるが、政策の淵源が妄想的なナラティブであることは戦争で現実に人々の身体が破壊され、都市が焼かれることを妨げない。いや、むしろ妄想的なナラティブほど強い現実変成力を持つ。
 
反知性主義者たちの肖像
 「反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人々であり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。」(リチャード・ホーフスタッタ-、『アメリカの反知性主義』、田村哲夫訳、みすず書房、2003年、19頁)
 
 反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。
 だから、彼らは少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を自説のために駆使することを厭わない。これは自分の仕事を他者との「協働」の一部であると考える人は決してすることのないふるまいである。
 
 誤解している人が多いが、民主制は何か「よいこと」を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなくて、「わるいこと」が起きた後に、国民たちが「この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない」というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。 それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である。
 このためには、死者もまだ生まれてこない者もフルメンバーとして含む、何百年もの寿命を持つ「国民」という想像の共同体を仮定せざるを得ない。その国民なるものが統治の主体であるという「物語」に国民が総体として信用を供与するという手続きを践まざるを得ない。
 
内田研究室 2006年5月16日
 全員が熱中した話題は「死と身体性」。
 さすがに、ね。
 そんなことになるのではないかと予測していたのである(嘘)。
 私たちはふつう時間を「現在から未来に」流れるものとして図式化する。
 しかし、しばしば時間は「未来から現在を回想する」という仕方で感知されることがある。
 私たちは実際はこの二つの時間意識を持っている。
 「ご縁」とか「既視感」とか「セレンディピティ」というのは、第二の時間意識に「乗った」ときに生じる感覚である。
 人間を自由にし、また不安にするのは第一の時間意識である。
 人間に宿命を感じさせ、深い安堵を与えるのは第二の時間意識である。
 memento mori は「死を思え」と訳されるが、動詞 memini は「思う」と「思い出す」の両義がある。
 だから、この成句の「お前が死んだときのことを思い出せ」とも読めるのである。
 とすると、この成句の語り手は、「私が死んだあと」にこの言葉を「私」に向けて語っていることになる。
 これは典型的な第二の時間意識である。
 この短い成句がこれほど長い間人口に膾炙したのは、多くの人がそこに同時に二つの意味を読んだからではないのか。
 私たちは自分の生と死を二つの視点から眺めることができる。
 「死ぬ前」の視点からと「死んだあと」の視点からである。
 古代の人間はこの二つの視点を交互に行き来するような時間意識の切り替え方の技法を持っていたはずである。
 そして、おそらく近代文明は、「死んだあとの視点から」現在をみつめる時間意識に切り替える技法を組織的に失ってしまったのである。
 その結果、現代人はベタな「今・ここ・わたし」以外のどのような視座も持てなくなってしまった。
 そして、私たちは未来から現在に向けてまっすぐ到来するような「ご縁」に感応する力を失い、同時に、希におとずれるわずかな時間意識の「ずれ」に驚倒して、「生きているのに、生きている実感がしない」とパニックに陥ってもしまうのである。
 フーコーは、「時間を遡行する」ような歴史意識を持つことによって、「死んだ後の視点からいまの私をみつめる」技法を回復しようとしてその社会史の方法を錬成したのではないかと私は思う(そう言えば、音楽史において、フーコーと同じ技法を試みたのが『日本ポップス伝』の大瀧詠一なのであった。)
 「彼らが私がそう語ることを禁じる」とセミネールで語ったとき、ラカンが「彼ら」という語で指したのは「死者たち」のことであった。
 だとすれば、レヴィナスの「彼」という術語が指していたのも「死者」以外にはありえまい。
 当然のことだが、「私が死んだあと」の視座に立つことのできる人間しか、「死者」のまなざしがみつめている「私」を見ることはできない。そして、「私が死んだあと」という立ち位置を取るためには、そのための技法を修練してゆく他ない。
 
バイナリではなくトリニティの世界 
 無限に向かう数学が最初からあったわけじゃなく、最初は循環する世界につての数字があった。
 
 20の次は1に戻って循環していたわけで、元に戻ることが重要なんですね。循環の概念が成立するには、ちがうもの同士のあいだに共通するものがあるという認識が発生しないといけないんだ。
 
 アナロジーですね。
 言語のほうではアナロジーと言っているものを、数学ではホモリジーと言っている。
 
 アメリカ先住民族ははっきり言ってますね、「われわれの世界は円を描く」と。実際にそういうふうに村のかたちもつくっている。縄文の遺跡も、村落の形状を見ると円環になっていて、中心には墓がある。
 
 音楽は、基音から5度のズレのある音を発見したあと、1オクターブ上に循環して戻ってくる。1オクターブ離れた音を同じ音だと認識する能力を人間は根源的にもっている。
 オクターブって、弦の振動でちょうど1対2という数学に対応しているのが不思議ですね。
 
 アナロジーって、ちがうものを同じだと見ることだけど、あいまいということが大事。
 
間 人間存在の核心 
木村
時間の問題で、少し分からないところがあるのです。「日本人は、本質的に時間的世界観に生きる民族である」と武満さんは書いていらっしゃる。そして、時間の観念が西洋では直線的なんだけれども、日本では円環的だと。
 
武満
結局日本人はひとつの音に、「空間的な広がり」を聴き出したり、見たりする。だが、音楽する時には、ひとつひとつが空間的な広がりを持つ複雑な音から他の音への「移ろい」に、実はもっとも音楽的なものを感じるんじゃないだろうかと思うんです。
 
木村
ハイデガーの「現存在」を「自己」と言い直してもいいと思いますけど、簡単に言えば、自己が自己である根本のところ、自己というものと自己であるということの間のズレ、つまり自己が「もの」として自覚されていながら、しかも自己でないものとの区別を含んで「自己である」という「こと」として開けている、その根本のところで時間が発生すると考える。だから、ものとしての自己とこととしての自己との存在論的差異、つまり先ほど私が言ったズレ、自己自身の内部の差異、自己と自己との内的な間みたいなところに時間がある。そこからすべての時間が生れる。
 
ベルグソンが時間の一番純粋な形としての「持続」ということをいう。持続自身は持続しないので、あらゆる時間的な流れをそこから生み出すもとになるようなものを「持続」として押えてる。普通、私たちが感じている時間というのは、時計が刻んでいくような時間、あるいは物が動いて行くのを追っかけているような時間、そういう既に空間化された時間であって、本当の持続ではないという考え方です。
 

●     内田樹
知性と信仰
こんな日本でよかったね 構造主義的日本論
存在していることの根拠を与えること
「生きることの愉しさ」について
『ストーリーが世界を滅ぼす』書評
反知性主義者たちの肖像
内田研究室 2006年5月16日
●     中沢新一
バイナリではなくトリニティの世界
●     武満徹&木村敏
間 人間存在の核


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