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#やれたかも委員会 、ただの下ネタと侮ることなかれ〜「やれたかも」は推理であり可能性であり、そして希望である~

「やれたかも委員会」――今年の4月から6月にかけて放送されていた連続ドラマである。

この一見すると下ネタにしか見えない、下衆なタイトルのこのドラマ。なぜこのタイトルにした。いや、このタイトルだからこそのインパクト、そして内容もこのタイトルどおりなので何ら間違いはないのだけど、侮るなかれ、これは良質な推理ドラマだ。そして哲学的ですらある。

しかし、そうは言ってもこのドラマの本質はやはり「あの子とやれたかもしれない」という、どこまでも下衆な願望なのだ。
だが、だからこそ、切実で、余裕が無くて、「かもしれない」が重く、そして人生において非常に大事なのだ。

何気なく見たこの作品、すばらしく面白かった。140字にはとてもおさまらなかったので、その感想をここに書き連ねておこうと思う。


「やれたかも委員会」とは

まず、ドラマの概要について、公式HPから引用したい。

「あのとき、こうしていれば…もしかしたら、もしかしたかも!?」「違う行動を起こしていれば、今とは違う自分になれていたかもしれない…」
誰もが一度は経験しているであろう、「やれた」「やれなかった」に繋がる、一瞬の、そして紙一重の決断。
「やれた」から心に残るとは限らない。「やれなかった」からこそ消えない想いがある。
青春の甘い想い出と、ひと言では括れない人生のあらゆる可能性、岐路を鋭くも優しく検証する。それが「やれたかも委員会」である!WEBサイト「note」で公開され、「cakes」で連載中の同名の原作は、読者の共感を呼び、WEBを中心に話題となった。異性との結局「やれなかった」過去のエピソードにとらわれた相談者が、「やれたかも委員会」の前で独白して果たして「やれた」のか「やれたとは言えない」のか判定を仰ぐという一話完結のストーリーで展開していく。「やれた」のか、「やれたとは言えない」のかをあらゆる角度からジャッジする「やれたかも委員会」メンバーには、佐藤二朗、白石麻衣、山田孝之の豪華な3名をキャスティング。相談者との間合い、男女の視点の違いを思い知らされる真剣な審議シーンなど、シリアスさとコミカルさの匙加減に注目だ。ごく普通の日常に起こりうるスリリングな瞬間、そして客観的に見れば細かい事柄ゆえの脱力感。大きく物語が動くわけでもないのに、なぜか心が揺さぶられてしまう。「やれた」「やれたと言えない」の判定は、単なる興味本位のジャッジでは片づけられない。そこに存在したかもしれない、不確かで切ない“人生” “もう一つの時間”の再確認なのである。

やれたかも委員会|MBS・TBS ドラマイズム

テレビドラマ「やれたかも委員会」公式サイト。2018年4月深夜放送スタート。出演:佐藤二朗、白石麻衣、山田孝之、ほか豪華ゲスト

yaretakamoiinkai.com

異性との一夜限りの甘い思い出。「やれたかも」という過去に囚われた相談者たちに、佐藤二朗、白石麻衣、山田孝之の3名の「やれたかも委員会」メンバーが、「やれた」「やれたとは言えない」のジャッジを下していく。

一見すると、女を弄んでいるとフェミニストは怒り出したくなるかもしれない、単なる下ネタに見える。

しかし、このドラマの面白いところは、単なる下ネタで、単なるラブコメ(端的に言えばエロ)なところではない。

「やれたかも」、つまり結局「やれなかった」、何も無かった過去に対して、「やれたかもしれない」という可能性を記憶と状況から分析するという、良質な推理ドラマな点にある。


山口雅俊さんのドラマ

山口雅俊さんというお名前を、テレビドラマが好きな人は見かけたことがあるだろう。

かつてフジテレビでドラマプロデューサーを務め、山口Pとの愛称で親しまれ、現在はヒントという会社に独立された山口雅俊さんである。

私の世代はまさに山口さんがフジテレビで作るドラマを見て思春期を過ごしてきた。そのため、私は彼の作るドラマには並ならぬ思い入れがある。

小学生の頃に見たカバチタレ!に始まり、きらきらひかる、ランチの女王、ロング・ラブレター漂流教室、アフリカの夜、ギフト、太陽は沈まない、ビギナー……時に再放送、時にはレンタルショップでビデオを借りた。
これらのドラマが自分の人生に与えた影響は計り知れない。

山口さんの作品は、いわゆる「社会派ドラマ」が数多く、その視点からすると今回の「やれたかも委員会」下世話で下ネタと、随分とテイストが違うように感じていた。

しかし、実際に見てみると、「やれたかやれたとは言えないのか」という一見バカバカしくも重大な転機を振り返るこのドラマの面白さは、まさにこれまでの山口ドラマと同じ作りなのだと感じたし、むしろ、1話約25分と短い中での完結するシンプルな作りには、フジテレビ時代に山口さんが作ったドラマは一体他の「社会派ドラマ」と何が違ったのか、というエッセンスが濃縮されていたようにも感じられた。

「やれなかった」事実と「やれたかもしれない」という真実

このドラマの肝は、「やれたかも委員会」は「やれた」か「やれたとは言えない」かを判定することはできても、実際の過去には何ら影響を及ぼすことができないところだと思う。

結局、相談者の「やれなかった」過去は変わることは無い。それでも、彼らは委員会に(つまり自分以外の第三者。それも委員会なんて“いかにも”な組織に)「やれた」と認定されることによって救われる。
過去の自分に自信を持ち、受け入れられるようになるのだ。

事実は「やれなかった」、でも「やれたかもしれない」。
この「かもしれない」という可能性に、ここまでのポジティブな意味がもたらされるのが、「やれた」、要するにセックスすることができたという本能的な勝利につながるから、と言う点で下ネタであることは間違いない。

それは間違いないのだけど、面白いのは「やれなかった」事実は何ら変わらないのに、相談者も委員会メンバーも、その事実に対する意味を変えようと、記憶と状況から分析を進める点にある。
相談者が欲しいのは「やれなかった」という事実では無く、「やれたかもしれない」という可能性、あり得た現実、これこそが彼らの真実なのである。

そして、これを端的に表しているのが7話ラストの佐藤二朗演じる能島穣の言葉だ。

「今を生きる私たちが過去に対してできることは、それを『やれたかも』と呼んであげること」

「やれたかも」という可能性を必要としているのは、ほかならぬ今を生きる私たち。

私たちが前を向き、自信を持って生きていくために、事実として「やれなかった」夜を「やれたかも」しれない夜に変えていく。その夜、自分は確かに誰かに受け入れられていたという真実。それがたとえ、ワンナイトラブであったとしても。

このドラマの面白さはそこだと思う。


さて、この変えられない過去の「事実」、既に知ることができない過去の「真実」に対して、今を生きる私たちがどのようにアプローチしていくのか、という問題提起。

どこかで見たことがあるような気がしないだろうか。

例えば、「きらきらひかる」。登場人物のひとりである杉裕里子は阪神大震災で亡くなったという妹・冴子の歯を肌身離さず持ち、それが果たして本当に妹のものであるのか、なぜ冴子は神戸で亡くならなければならなかったのか、その真実を追い求める。物語の後半で、その歯が冴子のものではなく、娘の樹理愛のものであると分かるが(=事実)、その歯が見つかったのは冴子のアパートの下。樹理愛は母である冴子を憎んでいたはずなのに、なぜ彼女のアパートの下で樹理愛は亡くなったのか(=真実)が分からない。

あるいは、「太陽は沈まない」。医療過誤を題材に、高校生の少年が自らの母がなぜ亡くならなければならなかったのか(=真実)を追い求める。真実を知るために、弁護士である桐野セツに協力を頼むものの、裁判で明らかになるのは事実であり、必ずしも自分たちが知りたい真実が明らかにはならない。

また、「ビギナー」。登場人物たちは毎回、白表紙と呼ばれる、過去にあった実際の事件記録を元に議論を進めていく。そこにも、事件の経過(=事実)は書かれていても、なぜその事件にかかわった人たちがそのような行動を起こすことになったのか、その背景(=真実)までは描かれていない。主人公の楓由子は、白表紙には載っていない人物たちの気持ちに寄り添おうと奮闘する。

山口さんのドラマでは、登場人物たちは過去に囚われ、それを知りたいと強く願う。

そのときに何があったのか。本当はどうすべきだったのか。

しかし、当事者が亡くなっていたり、あるいは匿名だったりと、過去そのものを知ることはできない。

あのとき、なぜあの人はこんな行動を取ったのか。こんなことが起きてしまったのはなぜなのか。そのとき、彼は、彼女は、どんなことを思っていたのか。

彼のドラマは、単純な事象(これを私は事実と呼ぶ。「やれたかも委員会」では「やれていない」という「事実」。)と真実(本当にあったかもしれないという論証不可能な「可能性」。今を生きる私たちが「信じたいもの」。)という二項対立が必ず出てくる。

前者は例えば、誰が人を殺したのか、あるいは誰が悪者だったのか、どのような手段で殺されたのか。物的証拠や第三者からの証言により証明できることもある。しかし、後者は必ずしも証明できるとは限らない。

でも、今を生きる私たちが、前を向いて生きていていくために必要なのは、温度の無い残酷な事実ではなく、温かく優しさに溢れた真実なのだ。

そして、彼のドラマはこの真実を見つけようと登場人物たちが奮闘する。

それによって、過去が変わるわけではないし、論証不可能な、可能性でしか無いそれを受け入れられない人もいる。それでも探す。「やれていない」ではなく、「やれたかもしれない」という可能性によって、今の私が過去を受入れ、自信を持って前に進むことができるようになるからだ。

その点で、この「やれたかも委員会」は、「やれていない」過去の事実に対し、記憶と状況――例えば女性の発言、そのときの周辺状況。あるいは写真、地図などの物的状況――を冷静に分析し、「やれたかもしれない」という真実を見つけようとする、山口流の推理ドラマであり、もしかしたら、「社会派ドラマ」なのかもしれない……と思う。

そもそも「やれたかも」ってどういうこと?

そもそも、「やれたかも」と短絡的に使っているけれど、この言葉の意味は想像以上に広く多義的だ。例えば、ホテルの部屋に行けば「やれた」のか。それとも、服を脱がせれば「やれた」のか。果たして、どこまで問題なくいけば「やれた」になるのか。

実は定義が曖昧で、佐藤二朗演じる能島と山田孝之演じるオアシスはこの点の評価が甘く、白石麻衣演じる月はこの点の評価が非常にシビアである。

仮に服を脱がせることはできても、その先はうまくいかなかったかもしれない。キスはできても、経験がなく、リードできなかったかもしれない。「やれたとは言えない」のかもしれない。

一見バカバカしいけれど、このそもそもの言葉の定義が分かりやすそうでいて、実は曖昧なところが、ある意味佐藤二朗に「哲学的」とまで(冗談だとしても)言わしめた部分なのではないかと思う。

でも、それは本質ではない。本質はあくまでも今を生きる相談者が、過去を受け入れ前向きに自信を持って生きられることだから。

そのために、能島やオアシスはきっとすべて「やれたかも」にするのだろうし、月は「やれたとは言えない」と、時に相談者が悩み受け入れられない過去そのものを否定するのだ。

いずれにせよ、「やれなかった」という過去そのものは変わらない。変えることはできない。

大切なのは、その過去に、今を生きる私たちがどのように意味を与え、未来を生きていくかである。

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