見出し画像

「花を与えるのは自然であり、それを編んで花輪にするのが芸術である」 

ゲーテの言葉だそうです。何と美しいの。

言葉には栄養があるのでしょう。
こういった、いわゆる名言とされるものを目にしては、犬がとびっきりの大事なものを隠すようにせっせと記し、頬をパンパンにしてなおお宝を押し込むハムスターのように、せっせと心の頬袋に貯めています。

先日そんな習性がある私のTLのおすすめ欄に流れてきた、お誕生日を迎えられた美智子さまが、体調不良によりピアノ演奏などで不自由が生じていることについてのニュース画面の切り抜きが印象深かったです。

今までできていたことは「授かって」いたもの
それができなくなったことは「お返し」したもの

ピアノなんて、努力の末に身につくことだと思います。どれがドかわからないまま触れて音が出せることと、音を繋げて曲にすることと、気持ちを込めて鍵盤を押し込むことは、全て違うと思います。

それを「授かったもの」と言えること。
そして、「できなくなった」ではなく、「お返し」したという意識。素敵。

いつか私に「できない」ことが増えた時に思い出したい言葉になりました。
そして、いまの私が「授かった」ものは当たり前ではないのだと再認識します。

いつ突然幕が降りるかはわかりませんが、平均寿命から考えれば、いまからの人生の方が長いと思います。
そんなまだまだハナタレの若輩者の人生ですが、振り返れば人並みに恵まれていると思います。

日々に笑顔があり、自分の意思で行きたいところへ行き、愛し愛されながら、読んで聞いて見て感動し、楽しくなってくるっと回ってスカートをひるがえしたり、目目連じゃないと使いきれないのではと思う量のカラーマスカラを買ってしまったり、自分をそれなりに大事にしながら、喜びや優しさに気付けるように生きている、つもりです。

八百万の神がいる国に生まれたわりに、特別に何かを信仰しているわけではないですが、なんとなく神様や仏様を信じています。
おばけや妖怪、サンタクロースや宇宙人なんかも、同様に。

「信じるか信じないかはあなた次第」とか、「信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷付く方がいい」とか聞くたびに、信じながら生きていたいなって思います。

人智の及ばない何かはきっとあると思うのです。
具体的に存在するかどうか、というより、それらを信じる人たちがいるものは、ある、気がします。

幽霊の正体見たり枯れ尾花、
怖い怖いと震えて見れば、揺れるすすきも幽霊になるし、ただの海の画像さえ、海洋恐怖症の人には恐怖の対象である「何かがある」画像なのです。


以前、「ドーナツの穴はドーナツといえるか」というような話を仲の良い子としたのですが、私にとっては、ドーナツの穴もドーナツの一部なのです。

物質として存在してなくても、概念として存在しているものは、きっと多い。

昨日の夜に眠りについたあと今日の朝が来たことも、
電車に揺られてうとうとしながら職場に着くことも、
信号待ちの交差点で車が突っ込んでこないことも、
隕石が落ちることなく今日が終わりそうなことも、
全部、沢山の偶然と奇跡の連続なのだと思います。


何気ない日々に感謝しながら生きていたいです。
何かをしてもらえることは当たり前ではないから。

いつか死ぬことだけが確かなので、今日もあなたにおはようが言えたことが嬉しいです。

私は私の人生を、振り返れば概ね大吉だと思っていますが、それはそう思うよう生きているから、というのも大きいと思います。

誰かの言葉や行動に傷付くことがあったとしても、出来るだけ色々なルートを考えます。

私が何かをしてしまったのなら反省しますが、そうではない場合、しかも、その言動に至った相手の気持ちを確認のしようもない場合、起こった出来事ひとつに、そこに至るまでのいろんなルートを考えます。

そうして手繰り寄せた中で、一番優しいものを、自分に都合良い答えにしたい。

「私はネガティブだから、傷付かないで納得なんかできない」と、ある人は言いました。
はたしてそれはネガティブでしょうか。

富士山を登るのに、1号目から自分の足で登りたい人もいるのです。私は5号目まで車で行きたい、というだけ。
自分に負担のないルートを探して選んでいるだけです。思想の違いがあるだけで、2つのルートにネガティブもポジティブもないはず。

どれだけ悲しみに暮れてもどうしようもないこともあるのなら、納得できる近道をしたいのです。

ずるいでしょうか。
でも、誰にずるいと言われても、世界でたったひとりの私を守るのに、必要な心の整理なのです。



自分の選択肢を全て正解だと思うのは難しいです。
戻りたいと思い浮かぶ過去は、ひとつじゃない。

だけど、いざドラえもんがあらわれて、引き出しを開けて、過ぎてしまった「あのとき」に戻れるタイムマシーンがあったとして、タイムパラドックスも起きずにやり直せるとして、それでも私はやっぱり、過去に戻ろうとはしないでしょう。

過ちや後悔を煮詰めて、一滴でも腑に落ちる納得と小さな肯定を積み重ねて、大事な思い出をお守りのようにぎゅっとして、少しずつ作られてきた今の私は、過去にひとつくしゃみをしただけで変わってしまうかもしれない。

完璧でも最強でもなんでもないわりに自分自身を好きだと思えるのに、ずいぶん時間がかかってしまったから、今の私を大事にしたい。

今の自分を大事にすることで、戻らなくても、過去の私を肯定することができるのならば、それはきっと、今に影響なく、戻りたい過去を優しいものに変えることができたことになると信じて。

与えられた花を私のために編めたのが、他の誰でもなく私だと信じて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?