0430 日記

案外人と共に過ごすというのは、奇跡に近いのかもしれない。

昨日、大学時代より親しくしている友人から「明日の仕事終わりに会えないか」という旨の連絡が入った。こういった急な召集がなされることは別段珍しくはなく、これと言った先約もなかったので二つ返事で了承した。文面上でのやり取りから察するに、友人はそれなりに鬱憤が溜まっているようだった。適当に入ったチェーン居酒屋の一角、折角頼んだつまみや酒にもいまいち食指が動かない様子であった。コークハイのジョッキは汗をかき、木目調のテーブルに水溜まりをつくる。まず語らねば気が収まらないとばかりの様子、指定された卓につくと口火が切られる。

匿名とはいえ、あまり他人のパーソナルな話をインターネットに流すのは憚れるためつぶさに語ることは控えるが、要は話を纏めると「人と人は数年も会わなければ大体薄い知り合いになる」ということである。怒りを向けるのも無理はない、私は友人の話を聞いた限りではこう感じた。冷たく感じられるかもしれないが、日頃ろくなやり取りもされないというのに、都合よくいつまでも友人面をしてとっくに賞味期限の切れたツテを辿り、利用するということ。損得勘定でギリギリに維持される関係性ほど虚しく、腹立たしいものはない。語るのが忙しい友人の代わりと言わんばかりに、相槌の合間を縫って杯を傾ける手は休まることのない夜だった。

社会人というタグを背負って、気付けば数年が経つ。車輪よろしくめまぐるしく働く五日間、結ばれた雇用形態に則り、朝から晩まで会社に拘束される。休日というのはせいぜい二日程度。友人はふと「最近、身の回りにそれほどの失礼な人がいなかったので驚いた」と言ってみせた。つまり、個人に与えられた余暇というのはどうしたって少ないのだ。学生の頃はアルバイトのシフトやある程度時間割を自身でカスタマイズし、時間をつくるだけの余白があった。が、然し。モラトリアムを経た現在、我々が自由きままに過ごせる時間というのはそれなりの制限が付き纏う。であればこそ、見ず知らずのうちに時間の価値というヤツが発生する。誰とどう過ごすか、無意識のうちに私達は恐らく選択をしている。今この時も、身の回りの誰に連絡をするべきか、言葉を掛けるべきか、会って過ごすべきか、取捨選択をし、最適な在り方を思案をするのだ。私も、友人も。限られた余白を共に過ごすってことを考えた時、やはり気の置けない仲間の肩を叩くようになっている。有り体に言って、もう仲良くしたくない人とは関わる時間も金も体力も勿体無いと感ずるようなっていた。

明日も仕事だというのに、友人は二軒目にカラオケを選択した。それぞれの部屋に宛てがわれたコンセプトルームの一室に入り、いの一番に「終電調べときな」と言う。そのような働きかけが、水際まで余白を相伴するって行為はとても当たり前なことだと認識していた。せせこましい二人用の九号室で、友人はさもありなんとデンモクを叩く。液晶画面に映るのは長い付き合いの中で培われた一曲目、ディズニー由来のデュエットソングである。じゃんけんをしてパート決めをする、このような一連の流れが互いの肉体に深く染みていた。掛け合いの合間に互いにまなざしを送ることや、かつて声質に合っていると評したアーティストの歌を送信し、やはり間違っちゃいなかったと言い合ったり、どちらかが歌唱している際に伝票に印刷されたQRコードを読み取りドリンクオーダーをすること。どれもが日常のいとまに組み込まれた行為であったが、この日だけは須く当たり前ではない気がした。

日中、インスタグラムのdm機能を利用し、送信したメッセージに対するアンサーが返ってきている。中学時代より親しくしている旧友に他ならない、先日、また一つ歳を重ねた人からのあたたかな言葉。自己に纏わるエトセトラ、人々のリアクションは親しいがために手に取るよう分かるようであったが、きっと奇跡に近いのかもしれない。知り合いと呼ぶには遠すぎる、友達とまっすぐ呼ぶのが心地よく、とりわけそのような人々とばかりマグネットをするってことしかしたくはない。有限の時を裂いたり、吸ったり、炙るのはもう、誰でも良いわけじゃなかった。内心、胡座を掻いていたんじゃないか。ひとしく身の回りの人々もまた、肉体にも思考にも与えられた自由は多くはない、ただ、一々言葉にしないだけである。世代であるため掛け流されるORANGE RANGEのイケナイ太陽。

差し込まれる合いの手がこれほどにしっくりと来ていたから忘れていただけだ、もっとありがたいと感じて良いはず…なんとなしに北京旅行に行かないかと誘ってくれる人がいるということ、地続きな平日に会おうと声を掛けてくれること、会いやすくなるからと近い街に越してきたこと、コロナ禍で中々会えない頃に私が好きなお茶菓子をなんでもない日に郵送してきたことーーー或いは友人の誕生日に、一泊二日の旅行をプレゼントしたことも、興味がないバーベキュー大会に面子を立てるため参加したことも、湘南の海で酩酊の最中ゆくえを眩まし、終電まで帰ってこなかった友人をファミリーマートの駐車場前でひたすら待っていたこと、それらすべてが、当たり前じゃない。ーーー理解できた。ひとえに、知り合いなんぞでなく、通行人ではいられないほど、時間と金と労力を費やしても良いくらい、互いに掛けてきたのだ、限りある自由を。

外野はよく言う、大人になってよくそこまで親しい関係を築けたものだと。やはり、奇跡に近いのかもしれない。付き合いの年月では測れない、ただ、互いに真摯であれば、関係を根腐れさせない思いやりがとても大事で、リスペクトは忘れちゃならないのだ。

同時に感じる、忙しさに甘えたりだとか、損得勘定で向き合うってことをしないのは寂しい。ただ好きなだけで良い、シンプルな苗に交互に水をやるのは簡単に見えて案外難儀なのかもしれない。肝心かなめの好きって気持ち、つまりは米米CLUBが言っていた。逢いたいと思うことが何よりも大切だよ、苦しさの裏側にあることに目を向けて、そんなふうに。トランク一つだけで浪漫飛行を敢行するならば、やはり、凡庸な顔をしつつも傍にいてくれる人たちと。立ち返った時、奇跡みたいに煌めく平日の、奇跡みたいな夜だった。

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