長すぎる質問箱回答

文字数大幅オーバーしちゃったのでこちらに置きます、、。


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こんばんは。嬉しくて嬉しくて、何度も読み返しています。そしておそらくこれからも読み返します。本当にありがとう。


私にとって音楽ってなんだろう、、
これです!と上手く言い表せないので、思いつくままに書いてみるね。おそらく手直しせず載せるので、とんでもないことになっています。

私が曲を創るのは、心を言葉に収められないときのような気がします。言葉で表せないものが、音でなら表現できるときがあるというか、、。
かと言って意図的に“言葉は無理だ!!音にするぞ!!”という感覚でもなく、無意識に創り始めています。


昔、“大合奏バンドブラザーズ”というDSのソフトで耳コピをするのが大好きでした。“ここにこんな音が隠れてるのか!”という発見や、上手く和音が作れなくて諦めたり、完成したデータが吹っ飛んだりして、、
慣れてくるとアレンジを加えたりして、周りが誰も遊ばなくなってもず〜〜っと遊んでたな。

そんなこんなで数年後、学校の選択授業で音楽を選んで授業を受けました。作曲について学べるのが嬉しくて猛烈にワクワクしながら臨んだのですが、それがもう拍子抜けするほどつまらなくて。(先生の授業が下手なんじゃなくて、私側の問題ね。)

ルールとか定義とか、立派な音楽家たちが大昔に発見したノウハウをたんまりと流し込まれる時間。数学と世界史のキメラのようでした。

その授業の中で“私がしたいのってこういうのじゃなかったんだ”と気がついて、それからはなんとなく音遊びから離れていました。

それから少し経って。友達のバンドに誘われたのがきっかけでまた音楽と触れ合い始めて、、とても楽しかったです。
だけど、決まったもの(既存の曲)を歌ったり弾いたりしていることがどこか窮屈で、よくわからない不思議な感覚でした。

音楽は大好きなのになんだか上手く楽しめない!!!!
という想いにモヤモヤしながら社会人になり、慣れない仕事に追われているうちに、そんな想いを抱えていたことすらどこかへ消えてしまいました。

何年か経つと、文章を書いて表現することにハマっていました。その中で“これは言葉じゃ表せないんだよな〜、、”と困る場面が何度もあって。
久しぶりにゲームを引っ張り出して遊んだら、見事にタイムスリップしました。


そのときに気がつきました。選択授業がなぜつまらなかったのか。

創るために学ぶと、学んだもので創る感覚になります。私はそれが怖いんだと。
私がしたいのは“心を全裸にすること”で、“綺麗に着飾ること”じゃない。汚くてもダサくてもありのままでその瞬間を詰め込みたいだけなんだな、と。
(このあたりは“音楽そのもの”というより、“私のやりたいこと”の話です。学ぶ人を貶してるわけじゃないよ、むしろ尊敬しかありません。)

時間は戻せませんし、知識を消すこともできません。“私は着飾る方法を知るのが怖いんだ!”と気づいたあたりでタイムスリップは終了し、また慌ただしい日常に埋もれます。


それからまた年月が経ってこのアカウントを作り、今と同様、私を見つけてくれたリスナーさん達と繋がるようになります。その中に、作曲をしている方がいました。
感じたままに創っていることが胸にギュッと伝わってくるような、そんな音楽。

それを聴いたときに何かが呼び起こされて、“そういえばiPhoneになんか作曲アプリ入ってたような、、”と思い立ち“GarageBand”を触り出したのが大きなきっかけです。


超〜〜久しぶりにゼロから創った曲は、たった8小節でした。それでもものすんんっごく楽しくて。出来た曲の愛おしさに突き動かされてGarageBandの画面収録をツイートしたら、優しいリスナーさん達は快く聴いてくれました。

ウケも狙えない流行りも追えない、知識からも技術からも逃げ惑っている私の単なる吐瀉物を“好き”と言ってもらえて、とても嬉しかったのを昨日のことのように覚えています。
(私というフィルターを通してしまっている以上、純粋に“曲”としての評価をしてもらえることはないだろうなとも思います。でも、それを差し引いても有り余る嬉しさでした。その感覚は今でも変わりません。)

初春の窓辺で風の音を聴きながら創った曲「.」は、“曲っぽい曲”としてのド処女作です。
その曲を気に入って、ピアノで弾いてくれる方がいたり、アプリで弦楽四重奏アレンジを創ってくれる方がいたり、、。
無知なド素人の音遊びでも一緒に楽しんでもらえることを知って、自分の“中途半端さ・未熟さ”による呪縛(?)からじわじわと解放されていきました。
今思うと、コンプレックスだったのかもしれません。


ふと気づいたら、春夏秋それぞれの曲を創っていて。“次創る曲には冬の要素を入れよう!”と遊んでいるとき、一人のリスナーさんと出会いました。その人が“音楽で出会った思い出の人”です。
当時私が仲良くしていた別の活動者さんの歌を好きでフォローして、その繋がりで私の歌や音遊びを見つけてくれたそうで。とても礼儀正しくて思慮深い、繊細で静かな言葉を使う人でした。

私が次々と創って次々とボツにしていく数小節を大切に聴いて、好きと伝えてくれたり。“音楽の楽しさを思い出させてくれてありがとう”と何度もお礼を言われました。
いつしかその人も音遊びをするようになって、載せているフレーズをそっと聴いたりして。


冬の曲が出来上がってしばらくして、“春夏秋冬そろったぞ!せっかくだからアルバムを創ろう!”と思い立ち、過去に創った曲達をアレンジし始めます。そして「..」のアレンジをしていた夜中に、お別れのDMが届きました。
最後になるからと少し長めのやり取りをして、“またいつか おやすみなさい”を最後にお別れをしました。

アルバム「ウツロイ. 」が完成したのはその数日後です。大きな達成感と、同じくらいの虚無感がありました。


“聴いてもらうために創ったわけではないけど、聴いてもらいたかった。どこかで聴いていてくれないかなあ、、”なんておこがましくて生温いことを、今でもときどき思っています。


その人とは好きなミュージシャンが一人かぶっていましたが私はそれを伝えず、今では少しだけ後悔しています。
どんな風に好きなのか・どんな風に聴こえているのかを知りたくて、新曲が公開されるとその人のことをぼんやりと考えます。


、、というわけで、“音楽を通じて出会った人”の中で特に思い出深いエピソードでした。

他人が音楽に接している様子からはいろんなものを感じます。心底楽しんでいることも、楽曲への愛がないことも、、その良し悪しはさておき。
余計なものまで見透かしてしまいそうで、ちょっとだけ怖いです。

のびのびと遊んで泳いで飛んで、グチャグチャになりながらも呼吸を続けるこの“心”を、自由に解き放つ“公園”。
私にとって音楽はそんなイメージなんだと思います。(いま気づいたよ)
そして、人の感性を丸裸にして見せてくれる“ヤバい眼鏡”でもあります。
そんな音楽が大好きです。


“曲っぽい曲”として完成したものはYouTubeに載せていますが、だいたいはフレーズのまま行き止まりになるのでTwitterにコロコロと転がしてあります。
それをこのアカウントでやることに申し訳なさを感じたときに作ったのが、あの創作垢です。



あの、、本当に長すぎて引いていますがこのまま回答として載せようと思います。
バカデカい独り言を読んでくださってありがとうございました。

回答になってるのかな?これが今日の私のありのままです、、何かしら伝わっていたらいいなと願います。

p.s.質問者さんへ。
もしこれを読んでくれていたら教えてほしいのですが、あなたにとって音楽とは何ですか?私も知りたいです。
(勇気を出して欲を言うと、、「ウツロイ. 」の中で特にどの曲がお好きなのかも知りたいです。)

このアカウントは音声投稿をメインにしていて、もちろんご縁はどれも大切です。
でも、吐瀉物(音楽や歌、言葉、考え方等)を好んでくださる方は私にとって少し特別なのも事実です。
大切に大切に読みますので、どうかよろしくお願いします。

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