再録20230813、原爆と世界の不可解とオッペンハイマー

 オッペンハイマーがようやっと公開され、全国の映画館でかかっている。まだ観てないがそのうち行く。以下は半年以上前に書いた文章の再録である。

『オッペンハイマー』が公開されねぇ、「あるべき原爆の描写」、『風が吹くとき』、世界は不可解、 -雑念20230813

 クリストファー・ノーランの新作『オッペンハイマー』が全世界で公開されてるのに日本でだけ公開されてない。
 
 雑記としてつらつら書いてて、いつも以上に間違いや嘘を含んでいると思う。気をつけろ。

 ロバート・オッペンハイマーは第二次世界大戦時、アメリカにおける原爆開発プロジェクト、マンハッタン計画のリーダーだった人だ。つまり我が国日本の広島、長崎に落とされた原爆が、この世に生まれてしまった責任者である。
 その自伝映画である『オッペンハイマー』は東映東和が配給権を既におさえており、ということは金払ってるはずなのに、公開日すら公表されてない。
 理由は分かんない。なんか、配慮してるんだろうか。唯一の被爆国として。しかも夏だし。日本人は夏はどうしても終戦、太平洋戦争、原爆投下を思い出してしまうしな。

 (主に)米国史観として、原爆は泥沼の太平洋戦争をさっさと終わらせたのだから、結果的に米兵だけでなく、日本人の死人の数も減らしたというものの見方がある。これがどれぐらい「筋」が通ってる話なのか僕は分からない。あの時点でどれぐらい日本が降伏に傾いていたのかいなかったのか。そもそも米国に戦争を始めた時点で頭がおかしかったとも言える。頭がおかしい上、戦争というのは始めるより終わらせる方がずっと困難なのだ。とりあえず延々とやり続ける方が考えなきゃいけない理由は少なくて済む。ろくでもない理由で始めるのは簡単だ。でも始めてしまって実際の死人や損害、誰かが払わねばならない責任、が発生しだすと話が変わってくる。何かしら結果らしい結果を出し、始めた時よりずっと説得力のある理由を考え出さないとやめられない。終わらせる方が、何十倍も何百倍も難しい。

 だから、そういう「原爆は正しかった」論はひとつの通説として未だに根強く存在する。とされる。

 作品が見れない以上、『オッペンハイマー』がその辺の歴史観についてどんな立場をとってるのかは僕には分からない。だが、少なくとも歴史上、原爆の父であるオッペンハイマーは反核運動の父でもある。彼は原爆の倫理的問題や人道的問題を取り上げ、核軍縮を主張した。世界は全く逆の方向へ突っ走っていったが。

 オッペンハイマーという人物を主人公として彼の視点から見た物語として映画を作るからには、それは反核映画にならざるを得ないとは思う。

 でも日本では公開されてない。既に見た人々からの批判でも、「原爆の被害の描写が不適切」だという声もある。尚更配慮は進むだろう。反核映画だとしても、不十分な反核映画だ、ということになるだろうか。

 誤解しないで欲しいが、僕は「ぐちゃぐちゃ言うな」と言いたいわけではない。例え、原爆投下が戦争終結を早め通常戦力による死者がさらに積み重なることを避けたのだとしても、「原爆投下は正しくなかった」と言う資格が当時広島長崎に居た人々にはある。もっと正確に言えば、「原爆投下は許せない」と言うだけの理由がある。人が人に直接殺されるというだけでもそれは「この世の終わり」であるのに、原爆はこの世の終わりどころか「地獄」をはっきり目に見える形で作り出し、昨日まで、ついさっきまで普通に存在していた大半のものを破壊し尽くしたのだ。その体験は、理屈を超えている。どんなに「正しい」理由があろうとも、許せないものは許せない。それが地獄に落とされた側の人間の、正しい魂の在り方だと思う。人として、原爆を許せないのは正しい。例え世界にとって原爆投下が正しかったとしても。

 オッペンハイマーの弟は兄の思想についてこう述べたという。「ロバートは、現実世界で使うことなど出来ないレベルまで兵器の能力が高まり、その破壊力が示されれば、兵器の使用、戦争自体が無意味になるのではと考えていた。しかし人間は新兵器さえもこれまでと同じように扱ってしまった。そうして彼は絶望した。」
 
 不十分な反核映画。

 「はだしのゲン」が十分な反核作品だとしよう。「風が吹くとき」という映画がある。同タイトル絵本を原作にしたアニメ映画だ。

 冷戦時代のイギリス。郊外に住む老夫婦。何だかよく知らないが、核戦争の危機が高まっているらしいぞと政府発行のパンフレットを元に対策をしてみる。災害に備えて、防災セットを買って水やビスケットを置いておこうというような感覚で。
 原爆が落ちる。ふたりは都市から離れていたこともあって助かるが、外の様子はどうもおかしい。あまりに静かだ。ふたりは原爆の破壊力についても、放射能による被曝の影響についても、知識がない。そのうちきっと助けが来るだろうと言いながら、ただただ日に日に蝕まれていき、何も分からぬまま死に向かっていく。最後には、おそらく自分たちは助からないのだろうと薄々気づきながらも、それでも出来ることは何もなく、ただ死んでいく。
 
 「はだしのゲン」と同時期にこの絵本を読んだが、こちらの方が遥かにトラウマになった。
 だけどアニメ映画化されたこの作品を最近見て、やっぱ刷り込みもあるけど原作の方が凄かったなとか思いながらネットで検索してると、「原爆の被害の描写としては不十分だ」という声もあるとの記述があった。全く共感は出来ないが、つまるところ、あの投下後の惨状や被曝によって肉体が崩壊していく様を、より直接的に書かねば十分ではないということなのだろうと理解はできた。
 原爆に関して、正確か不正確とは別に、「政治的に正しい」表現があるということだ。

 しかし、『はだしのゲン』と『風が吹くとき』が示している現実のどうしようもなさはどちらが上かと言われると、僕は後者だと思う。『はだしのゲン』のケレン味や漫画じみた強い生命力の描写のために深刻になりきれないから、『風が吹くとき』の可愛い暖かな絵柄と、無知な夫婦がひたすらに死へと引き摺られていく描写のために打ちのめされるから、という好みの問題だけではない。描いている時代が違うからだ。

 『風が吹くとき』のエンドクレジットの最後、M.A.D.とモールス信号が流れる。これは本編でも「西側の核防衛」についての会話でも軽く触れられている、相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)のことだ。もちろん夫婦ふたりはこれが何を意味しているのかよく分かってない。
 相互確証破壊とは、「相手国が自国に核を使用したことを確認した場合、自国も相手国に対して核を使用する」ことを互いに保証するという戦略だ。この相互保証が成立している限り、向こうを核で滅ぼすことは自分を核で滅ぼすことになる。よってどちらも核兵器を使用しない。はず。という理屈である。
 
 これに基けば、ひとつ核が落ちているというのは全面核戦争が起きた後だということになる。それを知らず、「核が使われないために賢い奴らが色んな仕組みを考えてるんだよ」と夫婦が相互確証破壊の話をしているところは悲しく滑稽だ。

 使用しないなら核兵器は要らないね、とはならなかった。自国を壊滅させるつもりで攻撃してきた相手国への報復時に、相手を壊滅させられない可能性が少しでもあると相互確証破壊が成立しなくなる。確実に相手を滅ぼせるだけの核を持ち、ひとつでも多く核を迎撃できるような装備を整える。こうして核は「使われない前提」でありながらひたすらに数を増やし続けた。

 この冷戦下における人類の加速した狂気が、僕が『風が吹くとき』の方がより悲惨だと思う理由である。45年、人類は広い範囲の兵士や民間人の生のために二つの都市の死を賭けていた。しかし80年代には全人類の生のために全人類の死を賭けようとしていた。そこには、原爆の悲惨さ、非人間性という現実は存在していない。全てが理屈の上でだけ成り立っている。理屈が崩れたら最後、広島長崎のように悲惨さや非人間性を語り継ぐ人類も、文明も消滅する。我々が思うところの現実が消えてなくなる。現実をいつでも無に返せる状態で、現実を気にする必要などどこにあるだろうか?

 オッペンハイマーや、80年前のトラウマを未だ抱える日本人が思う「人類の過ち、人類の愚かさ」を遥かにぶっちぎったところまで人類はとっくのとうに辿り着いているのである。核は良くない、核はなくそう、という原爆の悲惨な現実とかけ離れたところに核のリアリティはある。核を一発も使用しないために核を一発でも多く持つべきであるという狂い切った地点に人類はもう何十年も前から立っている。

 そして、その狂気からすれば度し難いことに、広島長崎以降、相手国への攻撃として核は一度も使用されていない。それどころか、核が生まれて以降、大国と大国が直接ぶつかり合う戦争は一度も起きていないのである。核兵器は歴史上最も人類を破滅に近づけておきながら、歴史上最も人死にが少ない時代を作ってしまった。今も、ウクライナ人が死に、攻め込むロシア兵も死に、終わる兆しは全くないままずるずると死体が積まれていっているが、アメリカとロシアは絶対に直接戦争をしない。核兵器があるからだ。オッペンハイマーが良心によって編み出した、あるいは広島長崎の原爆被害者たちが実際に地獄でその身を焼かれて学んだ、極めて人間らしい現実に足をつけた叡智。その人間の叡智に理屈だけで組み立てられた人類の愚かさが勝利してしまった。「我は死なり、世界の破壊者なり」あるいは「安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬから」という当事者たちの痛切な言葉を置き去りにして、人類は一層足を突っ込むことで世界を破壊から守り、過ちを繰り返さぬことに成功した。彼ら彼女らが想像したより、人類はもっとずっと狂っており、現実ももっとずっと狂っていた。

 世界は意味が分からないところだ。へんなところだ。

 オッペンハイマーは癌で死んだ。告知され、治療の成果も上がらず、死を待つしかないと分かった後、彼はつきものが落ちたように穏やかになったという。原爆を作り出してからそれまでの間、ずっと戦い続けてきた罪悪感と折り合いがついたのだろうか。それはお話として収まりが良いということに過ぎず、意味するところは結局僕にはよく分からない。

 これだけたくさんのことを書いたが、これまでもそれなりにたくさん書いたが、僕はいつも、よく分からないと言ってるだけである。何を取り上げ、何を説明しようと、最後にはそれ以外言うべきことが見つからない。

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