セイクリッドペアーズ解釈

この記事は個人の解釈を書いたものです。皆さんも自分の解釈を大事にしてください。
曲を聴いて、歌詞を読んで、フォロワーさんと語り合って固まってきた現時点での自分のセイクリッドペアーズ解釈です。フルコーラスを聴いたらまた変わると思いますが今の考えを残しておきたいと思い書いてみました。勢いで書いた文章ですがよろしければどうぞ。

夕暮れの黄昏に揺れて愛は深くなった

夕暮れの黄昏というのは時間を表していると思います。ここからサビ頭までの歌詞で二人の時間経過を表現してると思っています。二人は旅を人生だととらえていますし、『続け…!ISHの旅』では『人生全部を歌にして』という歌詞があります。全体曲とデュエット曲では違うかもしれませんが二人の人生が込められていると思っているので、人生=旅=ツアーズ。ツアーズの中の曲で人生を思い返さないわけがないと思うので曲の中で人生の時間経過を表しているのではないかと思いました。黄昏は二人が幼少期初めて出会った時のことだと思います。子供が出るパーティなので始まりも夕暮れの時間からだと勝手に想像しているのでまさに二人の縁の始まりですし、曲の最初のフレーズらしいなと思いました。愛は深くなったというのは、二人は険悪な時期でも幼少期の思い出を大切に想っていたと思うし、幼き頃の友人愛みたいなものはパーティで会うごとに深くなっていたと思うのでそのことかなと思いました。

大人のキスのような時間…風の深みに

大前提としてキスはしていないと思います。実際にしていたら「ような」という比喩表現は使わないと思うので。(大天才フォロワーさんの解釈です)先述から続きますが大人のキスのような時間は深夜帯を表現していると思います。曲内の時間経過において深夜帯は二人が一番険悪だった時期(学園での再会等)のことだと思います。学生時代はお互いに悩み葛藤し、文字通り真っ暗な時期であったと思います。深夜のような暗く物悲しい時間であったことを表現しているのではと思いました。しかしそのあとに風の深みにとあるので、その険悪で暗い時間でさえも人生の深みになっている。つまり二人にとってどのような形でもなくてはならなかった時間であることを表しているのではないかと思います。誰の人生にも暗い時間というものはあるかと思いますが、人前で喧嘩をよくしていた二人が暗い時間も今思えばなくてはならなかったと歌詞を通して人に向けて表現しているところが二人の関係性が変わったのだなと思いました。

二人は運命を飛び越え夢へとトリップした

運命というのは聖川真斗にとっては家に決められた人生、神宮寺レンにとっては誰からも愛されない人生のことだと思います。その人生を学園で夢を見つけて、掴んで、叶えて塗り替えたことだと思います。自分自身で道を切り開いたことだと思いました。

太陽と海みたいなペア心は重なって

いろいろな解釈を見ましたが私はお互いがお互いのことを太陽だと思っている説を推しています。聖川真斗にとって神宮寺レンは家に縛られずに自由に生きている憧れの象徴のような人物、神宮寺レンにとって聖川真斗は家から求められ愛されている羨望の対象だと思っています。自分が喉から手が出るほど欲しいものを持っている人物。お互いに見ていて眩しいと思う時があったのではないでしょうか。お互いに憧れて、眩しい太陽のような存在だと思っていそうだと思います。そして、その太陽のような存在の隣にいると自分も引っ張られて輝けているような気持ちになっていたのではと思います。本当は自分自身も輝けているのに。だからお互いを太陽だと思い、自身をその光を受ける海だと思っているのではと思います。しかし、それを相手には伝えていないと思います。より妄想が強くなりますが、太陽と海みたいなペアという歌詞を初めに言い出したのは神宮寺レンさんだと思います。それに聖川真斗さんも同意しますがお互いにどちらが太陽でどちらが海かについては話していないと思います。そしてこれからもずっとお互い太陽だと思い続けてほしいと思います。根っこの価値観は近いけど育ってきた環境が違うから考え方が違うようなエピソードがあればいいなという妄想でした。時間経過の話ですが、ここは日の出を表していると思います。太陽と海が重なる瞬間は日の出か日の入りですが初めの歌詞で夕暮れが出ているので必然的に日の出だと思います。太陽と海が重なる瞬間に心も重なる。つまりすれ違っていた険悪な深夜帯は終わり新しい関係性の朝が始まるということかなと思いました。

聖なるMemoriesがまた二人に生まれた奇跡

聖なるMemoriesというのは幼き日の楽しい思い出のことだと思います。険悪な時期に幼少期の楽しいひと時を思い出してはだんだんと神格化といいますか、清らかで大切な記憶になっていったのではないかと思います。Memoryが複数形になっているのはその記憶が複数形=同じものにカウントされるくらい二人の愛の深さが一致していたからなのではと思います。そんな大事にしていた思い出が「また」二人に生まれた。お互いにうんざりするくらい嫌な時期、些細なことで喧嘩をしていた時期にはありえないと思っていたまた心が重なる瞬間、気持ちが通じる瞬間はまさしく奇跡のように感じられたのだと思います。時間経過では朝日が昇っていると思います。朝日は出産のシーンや神秘的なシーンでも用いられることが多いと思っているので、また聖なる思い出が二人に生まれたことの奇跡をより表していると思います。

神様も羨むさ恋のようだとAh...

先にもありましたがここでも比喩表現を使っているので恋そのものを指してはいないと思います。私はあまり詳しくないのですが、知識がなくとも神様が祝福をしているイメージというのはあるかと思います。私の中で強く想起されるのは幸せの祝福です。幸せには「愛」が関わっていると考えます。たくさんの祝福をし、幸せを願いてきた神様が羨む恋のようなものを愛であると私は考えました。愛にもいろいろありますが、ここでは何かを大切に想う心や愛おしく思うというニュアンスの愛を強く感じます。

Love君に出会えた日 今日が決まっていたんだ

Loveです。さっき書かなくてもここにありましたね。聖川真斗は、神宮寺レンは、お互いに出会えた人生を愛していると思います。君というのはお互いのことを指していると思います。あの時パーティで出会った時から今日ここでセイクリッドペアーズを歌うことは決まっていたのです。どんな過程があろうと縁を切らない限り心が重なり合えるんです。切っても切れない腐れ縁で繋がっていますから。お互いに歩みを止めなかったからこそ今日まで続けられたのだろうなと思いました。

手を取って
抱き締めて

私は神宮寺レンが手を取っているのはかつて手を取れなかった家のしがらみに縛られている聖川真斗。聖川真斗が抱き締めているのはかつて抱き締められなかった白いシーツの中で孤独を感じている神宮寺レンのことだと思います。かつては自分のことでいっぱいいっぱいだったけれども、いまなら手を伸ばすことが出来る、愛を伝えることが出来る、そんな関係になったのだと思いました。

瞳閉じればAh... 旅路の空はAh...
いつでも降るよ

瞳を閉じたら見えるのは記憶が描き出すもののみ。それが旅路の空、つまり人生であるということは、二人の思い出を辿っているのではないかと思いました。人生のほとんどをお互いを知った状態で生きている。だから聖川真斗の人生を語るには神宮寺レンが不可欠だし、神宮寺レンの人生を語るのには聖川真斗が不可欠です。そのため人生を振り返る時は必然的にお互いの存在が思い起こされると思います。瞳を閉じたときにいつでもその人生の思い出たちが降ってくる。つまりすぐに想えるところに思い出たちが常にいるということなのかなと思いました。この旅路の空はきれいな色をしていたらいいなと思います。

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