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武井彩佳「歴史修正主義:ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで」~今だからこそ、問い直すべきこの重要な問題

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著者の武井氏はドイツ現代史・ホロコースト研究を専門とする学習院女子大学教授。これは今年10月に出された新書だが、ようやく読めた。ざっくり言うと、主に欧米諸国での「歴史修正主義の流れ~特にナチズムやユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)に対する歪んだ評価」を概観した論考だが、これは今の日本でこそ読まれるべき非常に重要な論点・視点満載の優れた論考である。私自身はこの問題を常に「歴史捏造歪曲主義」と言うようにしているが、ここでは著作のタイトルに倣って「歴史修正主義(revisionism)」と言うことにする。

武井氏は、歴史を「修正(revise)」することの意味から説き起こすが、実証史学においては、新たな史料発掘などによって新しい事実や視点が提起され、それによって過去のある事象に対する見方・評価が変化することはもちろんあり得るし、そういう意味では歴史は「可変的」であり、常に「複数形」であり、「重層的かつ複合的」である。そして、そうした真摯な史料検証による歴史の「修正(revise)」は充分に学術的な営みである。

一方、ここで問題としている「歴史修正主義」とは、歴史を単線的な流れとして、そして多くはある政治的意図を持って描くことで、特定の勢力にとって都合のいい「物語」を構築していく試みを言う。それらは、一次資料や学術論文のつまみ食い・恣意的引用などを常套手段としており、真っ当な歴史研究者が見ればその瑕疵・捏造性は明らかなのだが、多くの一般読者にはその恣意性を見抜くことは困難である。一部には史実も織り交ぜながらの「虚実混交の物語」は、読者がそれまで教えられてきた「歴史的事実」にある種の疑念を抱かせる効果を持つ。そうした「認識のゆらぎ」を読者にもたらすこと~それこそがまさに重要で、必ずしもそうした「虚構の歴史像」の全面的信者にならずとも、それら「歴史修正主義的著作」は充分に目的を達成したことになる。また、そうした「歴史修正主義的著作」の虚偽性を実証的に証明するには多大な史料検証の時間と労力を要するため、多くの真っ当な研究者は「反論にも値しない」とそれらを無視し相手にはしてこなかった。

武井氏はここで、主にドイツとフランスでのナチズム・ヒトラー礼賛、ホロコースト否定論の勃興とそれらへの学術的批判と裁判闘争などを通じて、いかにそうした「歴史修正主義的言説」が西欧社会から排除され、また法的にも規制がかけられて、そうした虚偽言説が刑罰に処せられるような流れが出来てきたかを、まずは19世紀末のドレフェス事件や第一次大戦から説き起こし、第二次大戦後~2000年代にかけて詳細に論じ解説しているが、その根底として重要なのが「民主主義が機能していること」だという。事実、民主主義が機能していない社会では容易に「歴史の事実」が政権の都合のいいように書き換えられ、それが権力によって押し付けられるようになっていく。その意味では、東欧諸国がソ連崩壊後、スターリン時代の公的歴史を見直し、あの時代の諸民族への圧政を明らかにしていったことは象徴的。ちなみに、「表現の自由」をまずは尊重する英米が「歴史の歪曲」を法的に規制し裁くことに慎重なのに対し、独・仏など欧州大陸諸国が「歴史的に公知の事実」とされた事象を否定する言説は「表現の自由」の保護に値しないと考えてきたことは対照的である。そしてそうした英米・オーストラリアのような英語圏が「歴史修正主義」造成と拡散の温床となってきたという事実。

翻って、現在の日本の状況~武井氏はドイツ史を専門とすることから近年の日本での「歴史修正主義」の流れには敢えてほとんど触れていないが、しかしこの精緻な論考の視野には自身の国が抱える重大な問題に対する懸念も含まれていることは明らかである。この著作で論じられている欧米諸国での「歴史修正主義」克服の歴史と今の日本の状況のあまりの対称性。私はこの著作を読む前、11月に同じく武井氏による「〈和解〉のリアルポリティクス―ドイツ人とユダヤ人」を読んだが、それと併せて考えてみると、戦後(西)ドイツが西欧諸国との友好関係を再構築し国家を再建していく上で、「ナチズムやヒトラーの思想・政策を否定・批判すること」が必須要件だったことに対し、戦後日本は米ソ冷戦下に米国の東アジア戦略に組み込まれ、なおかつ韓国や東南アジア諸国などで開発独裁型の強権国家が少なくない中、周辺諸国からあの戦争でのアジア侵略の歴史に対する真摯な検証と批判を必ずしも強く迫られなかったという事実~そして保革両勢力の大合同による1955年体制成立によって誕生した自由民主党自体が、「自主憲法制定」をその目標に挙げるほどに米国に「押し付けられた」民主主義制度に懐疑的だったこと、岸信介のような戦犯が米国と裏で手を結ぶことで刑務所から釈放され、結果この国の首相にまで昇り詰めたという事実~などがドイツ・フランスなどとの決定的な違いを生んでしまった要因なのではないか~そのように考える。そしてまさにその岸信介の孫~安倍晋三という人物が政権を握っている間に、この国で「歴史修正主義的著作や言説」が広く垂れ流されてきたという事実は、実に重く深刻である。

武井氏は優秀な歴史学者であるがゆえに、歴史の全体像を重層的・複合的に捉えることに対して常に謙虚で慎重な姿勢を崩さないが、そうした研究者の真摯な論考だからこそ、読むものに多くのことを考えさせてくれる。この著作をよく書いてくれたと思う。

最後に著者のあとがきから・・・「この本を読んだ大学生の皆さん、学ぶことに執念を持ってほしい。それは必ず30年後、あなたの骨となって、あなたが倒れないように支えています。」






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