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植民地支配期の遺構をどう今に活かしていくか~松井理恵「大邱の敵産家屋:地域コミュニティと市民運動」(共和国)


2024年3月刊

著者は社会学研究者で現在は跡見学園女子大学観光コミュニティ学部准教授。これはなかなかユニークな研究成果で新たな視点を示唆される有益な著作だった。
地域コミュニティや「まちづくり」を社会学的に研究する著者が、韓国の大邱(テグ)を軸に、かつての大日本帝国による植民地支配期に建てられた多くの「日式家屋=敵産家屋」がその後どのような変遷を辿り現在に至っているかを解明していく。
1910年の正式な「韓国併合」による本格的な植民地支配前から朝鮮への日本人植民は始まっていて、やがて高麗時代・朝鮮王朝期に特徴的な邑城(ウプソン)の城壁は日本官憲によって撤去され跡地は環状道路となっていく。また、朝鮮家屋の多くが南を玄関とする風習から道路は必ずしも整然と整備されてはいなかったが、それも日本人植民者の居住区建設のために碁盤の目のように区画整理されていく。そして「日本人植民者居住区」と朝鮮人街区は厳然と区別される。やがてアジア太平洋戦争での日本敗戦により日本人植民者は続々と「本土」に引き揚げていくが、その時に残された日式家屋を買い受けたり継承した朝鮮人もいれば、やがて朝鮮戦争の動乱期には米軍から流れて来る軍需物資の工具類を売る露天商や自営業者たちが日式家屋を利用し、あるいは戦乱から逃れて来た多くの避難民も住まうようになっていく。
その後、韓国の高度経済成長期には大邱の北城路は「小規模機械工場の集積地」として中小事業者独自の技術・ノウハウが蓄積されて行く。そこにあるのは「かつての支配者が建設した家屋」に対する敵意よりも「使えるものは何でも使う」一種のプラグマティックでブリコラージュ的精神である。ソウルにあった「朝鮮総督府」のような「植民地支配の象徴的建築物」が解体撤去されたのは当然だが(それも1996年になってようやくである)、韓国各地に残る日式家屋は今では「植民地支配期の歴史遺跡」として保存されるようにもなっていて、そうした「地域の遺産継承・記憶の継承」は非常に意義深いことだと私も思う。ここでは著者が大邱で出会った市民団体「まちかど文化市民連帯」との関わりや、彼らの地域保存活動が、あの名曲「江南スタイル」で有名な富裕層地区・江南のような大規模再開発に対抗するたくましさも紹介されていて、「再開発による高層化」ではないリノベーションによる地域活性化~という事例は、韓国・日本を問わず貴重な活動記録でもあるだろう。私はこれを読みながら、大邱でこの市民団体が主催する「ウォーキングツアー」などは、日本の一橋大学・加藤圭木ゼミ生たちによる各種啓蒙ブックレット活動とも連携してより有益な「歴史探訪ツアー」が可能なのではないか?などど勝手なことを想像した。
松井氏はこの著作の中で林志弦氏「犠牲者意識ナショナリズム」などを引き合いに出しながら、植民地支配への「抵抗と適応の総体的プロセス」を被害・加害の二項対立的単純構造を超えた複眼的視点から捉える重要さも説いている。それこそがポストコロニアルな構造を未だに引きずる現代社会に生きる我々が獲得すべき視点でもあろう。そして、それは決して「歴史相対主義」による「朝鮮にはいいこともしてやった論・朝鮮近代化論」擁護や植民地支配責任の希釈・免責ではない。こういう大事な視点・観点が少しでも多くの人々に共有され、「真っ当な歴史認識の共有と共感」が拡がり、そしてそれが「未来の連帯への布石」になればいいと心から思う。
最後に著者はこの研究に取り掛かる契機ともなった森崎和江「慶州は母の呼び声」の紹介と、その韓国語版翻訳を自身が提案・担当したことを記している。この、1927年に植民地朝鮮の大邱(たいきゅう)で生まれ育った作家の著作の存在は勿論私も知っているが、これまで特に読みたいと思ったこともなかった。しかし、これは是非読んでみなければなるまい。

<付記>私の母方祖父母の故郷・慶尚北道義城郡が大邱から北へ70kmほどのところなので、本著には勝手に親近感を抱きながら読みすすめた。慶尚北道というと伝統的に「保守が強い地域」というイメージがあるが、本著によると大邱はかつて進歩派の活動が盛んだったこともあり、保守の岩盤地域となったのは、慶尚北道出身の朴正熙軍事独裁政権時代に、この地域に様々な「利益誘導・利権政治」を展開したことが大きいという。

<付記2>参考までに約2年前に読んだこれも貼っておく・・・https://note.com/meuniere2008/n/n2b68a0445e95...


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